昔、ピアノ調律師の出てくる短編を書いたことがある。デビュー時なので、二十五年以上前になる。ピアノの調律について、本を読んだり、家に来てもらった調律師さんや中古ピアノ店の店員さんに質問して勉強した。ピアノも、四歳から十年間習っていた。……というわけで、少しは馴染のある世界と思って読んだのだが、『羊と鋼の森』のピアノと音への探求の奥深さに驚いた。
調律の仕事の様々なシチュエーション、ピアノという楽器とその音の特性、読み進めていくにつれ、読者は本当に多くのことを知ることになる。膨大で細密な情報であるのだが、決して説明的にならずにエピソードに静かに溶け込んでいる。
本作の主人公、外村青年は、高校卒業後、専門学校で学び、地元北海道の楽器店に就職した駆け出しのピアノ調律師だ。ピアノを主に扱っている小さな楽器店には、四人の調律師がいる。初心者マークの外村、彼を一番よく面倒見てくれる七年先輩の柳、四十代の舌鋒鋭い秋野、高校生の外村を魅了して調律師の道に引き込んだ天才板鳥。この三人の先輩たちの仕事の信条、こだわり、夢は、それぞれ大きく異なっていて、その違いが各自の人生としても描かれている。
柳は、人当たりがよく、趣味でバンドのドラマーをし、婚約中とリア充そのものだが、公衆電話の派手な黄緑の色の主張が我慢できないような神経過敏な思春期を過ごし、メトロノームの音と幼馴染の存在に救われた。秋野は、ピアニストとしての自分の才能の限界におびえるうちに、落下する悪夢を見るようになり、四年間煩悶したのちに調律師に転身する。天才板鳥は、巨匠のヨーロッパツアーに帯同を求められるほどの存在なのに、飛行機を嫌がって乗りたがらず、小さな町の小さな会社で働いている。三人とも、おそろしく繊細で神経質で聡明だ。その鋭すぎる感覚を、音を整えるという仕事に注いで、人生のバランスをとっているように思える。
本作で、私が一番感銘を受けたのは、この先輩たちと外村の関わりだった。鮮やかな個性の先輩たちのエピソードは、外村が一つひとつの仕事で関わる中で、ごく自然に立ち上がってくる。先輩たちの仕事に同行し、個人宅、コンサートホール、様々な場所とシチュエーションで、技術とポリシーを知り、人生の断片を聞き、学んだり、悩んだりする。外村が己の仕事について探索する道のりで、読者は先輩たちを少しずつ知ることになるのだが、そのエピソードの重ね方が印象的で秀逸だ。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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