「さっきよりずいぶんはっきりしました」
「何がはっきりしたんでしょう」
「この音の景色が」
音の連れてくる景色がはっきりと浮かぶ。一連の作業を終えた今、その景色は、最初に弾いたときに見えた景色より格段に鮮やかになった。
「もしかして、ピアノに使われている木は、松ではないですか?」
その人は浅くうなずいた。
「スプルースという木です。たしかに松の一種ですね」
僕はある確信を持って聞いた。
「それはもしかして、大雪山系の山から切り出した松ではないでしょうか」
だから、僕にも景色が見えるのだ。あの森の景色が。だから、こんなに僕の胸を打つのだ。あの山の森が鳴らされるから。
「いいえ、外国の木です。これはたぶん、北米の木だと思います」
あっけなく予想は外れた。もしかすると、森というのはすべて、どこにあってもこんな音を立てるのだろうか。夜の入り口というのはすべて、静かで、深くて、どこか不穏なものなのだろうか。
その人は、羽のように開いていた蓋を閉じて、その上を布で磨きはじめた。
「あなたはピアノを弾くんですね」
穏やかな声で言われたとき、はい、と言えたらよかったと思った。ピアノを弾いて、森や、夜や、さまざまな美しいものを表現できたらよかった。
「いいえ」
実際には、触ったこともなかった。
こちらもおすすめ
プレゼント
-
『皇后は闘うことにした』林真理子・著
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/11/29~2024/12/06 賞品 『皇后は闘うことにした』林真理子・著 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。