「ここのピアノは古くてね」
その人が話しはじめたのは、たぶんもう作業が終わりに近づいたからだろう。
「とてもやさしい音がするんです」
はい、としか言えなかった。やさしい音というのがどういう音なのか、僕にはよくわからなかった。
「いいピアノです」
はい、とまた僕はうなずいた。
「昔は山も野原もよかったから」
「はい?」
その人はやわらかそうな布で黒いピアノを拭きながら続けた。
「昔の羊は山や野原でいい草を食べていたんでしょうね」
僕は山間の実家近くの牧場にのんびりと羊が飼われている様子を思い出した。
「いい草を食べて育ったいい羊のいい毛を贅沢に使ってフェルトをつくっていたんですね。今じゃこんなにいいハンマーはつくれません」
何の話だかわからなかった。
「ハンマーってピアノと関係があるんですか」
僕が聞くと、その人は僕を見た。少し笑っているような顔でうなずいて、
「ピアノの中にハンマーがあるんです」
全然想像できなかった。
「ちょっと見てみますか」
言われてピアノに近づいてみる。
「こうして鍵盤を叩くと」
トーン、と音が鳴った。ピアノの中でひとつの部品が上がり、一本の線に触れたのがわかる。
「ほら、この弦を、ハンマーが叩いているでしょう。このハンマーはフェルトでできているんです」
トーン、トーン、と音がして、それがやさしいのかどうか、僕にはわからない。でも、森で、九月の上旬で、夕方の六時頃で、暗くなりかけていて。
「どうかしましたか」
聞かれて、僕は答えた。
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