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同時代を生きる現役作家の作品を追いかける最大の愉しみとは?

同時代を生きる現役作家の作品を追いかける最大の愉しみとは?

文:重松 清 (作家)

『ナイルパーチの女子会』(柚木麻子 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

『ナイルパーチの女子会』(柚木麻子 著)

 ともに女子校出身、三十代の小説家と四十代のコラムニストが語り合っている。小説家は柚木麻子さん、コラムニストはジェーン・スーさん。先輩と後輩の「女子会」という趣である。

 舞台は雑誌『ダ・ヴィンチ』二〇一五年十二月号――〈いま、一番女性の支持を集める作家〉として柚木さんの特集が組まれ、その目玉企画の一つがジェーンさんとのロング対談だったのだ。

 話が佳境に差しかかった頃、柚木さんは「女子校って偏見持たれること多くないですか?」と訊いた。「ヒエラルキーがあるんだろうとか、お嬢様なんでしょう? とか」

 同年の講談社エッセイ賞を受賞した『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』そのままに、ジェーンさんの回答は歯切れが良い。

「そういうこと言ってる人とわかり合えなくても、全然問題ないと思います」

 柚木さんも、我が意を得たりと「そっか。わかり合えなくてもいいって大事ですよね」と賛意を示す。

 続けてジェーンさんが曰く。「そこに絶望はないので。一瞬、胸に冷たい風が吹かなくはないけど、その人とわかり合う苦労を考えたら……」

 それを受けて、柚木さんはこんな一言を返した。

「わかり合わなきゃ、共感できなきゃということから失うものって大きいですもんね」

 この言葉をご紹介した時点で、拙稿──『ナイルパーチの女子会』の読書ガイドの任は、半ば以上果たしたことになるだろう。

 対談の数ヶ月前、二〇一五年三月に柚木さんが上梓した本作は、まさに「わかり合わなきゃ、共感できなきゃということから失うもの」の大きさについて描かれた長編小説だったのではないか。

 大手総合商社のキャリア社員の栄利子と、ダメ奥さんのブログで人気の翔子、一見対照的な、けれど栄利子の言葉を借りれば〈趣味や性格は正反対、でも根本のところで同じ〉二人は、ふとしたきっかけで友達になる。

 とても美しく、幸福感に満ちた情景が、物語の序盤で描かれる。女友達ができないタイプだと自認する栄利子が〈たった一人でも女友達がいるだけで、己の色や形がくっきりとなぞられ、存在に自信が湧いてくる〉と感激にひたる一夜があった。未読の方の興趣を削ぐのは申し訳ないので詳細は省かせてもらうが、すでに本作を読了した方にはすぐに「ああ、あそこだ」とうなずいて、?を自然とゆるめていただけるだろう。

 だが、その幸福感は束の間のものだった。長い物語の中盤、そして終盤に向かって、栄利子と翔子はひたすら追い詰められていく。二人は、あの幸せな夜に確かに〈くっきりとなぞられ〉たはずの〈己の色や形〉、すなわち輪郭を見失ってしまう。
二人の関係は軋み、歪んで、罅割れていく。違う、友達の関係が壊れるのではない、友達という関係が壊すのだ、彼女たち自身を。いや、もっと焦点を引き絞るなら、友達がいなければ、という思いこそが、彼女たちを自家中毒に陥らせ、とことんまで苦しめる。

〈人と人との繋がりの中に飛び込んで、自分の輪郭を確認したかった〉栄利子は、どんなことをしでかすのか。

〈誰かに触れ合って、自分の輪郭を確かめたい〉と希う翔子は、なにをしてしまうのか。

 むろん、それをここで明かすのは野暮の極みである。

 代わりに、問わせてもらおう。友情の始まりにあるものは何なのか。人と人とを友達として結びつけてくれるのは、どんな思いなのか。

 作中で栄利子は思う。〈この世界で何よりも価値があるのは、共感だ〉

 栄利子だけではない。〈誰もが、身をよじり涙を流すほど、共感を求めている。共感するためなら、いくら金を払ってもいいと思っている。共感を求めているからこそ、誰もがネットを手放すことが出来ない〉

 SNSの「いいね」やリツイートを持ち出すまでもなく、この世の中は、誰かに共感されたい思いや誰かに共感したい願いに(時に息苦しさを感じてしまうほど)充ち満ちている。

 共感を、承認や肯定、さらには意訳を許していただくなら「ともにあること」と呼び換えてもいい。

 栄利子は翔子と、ともにあろうとする。共感で繋がり合いたいと求めて、自分たちが〈支え合えれば無敵の二人組になれるってずっと思ってたのよ〉と翔子に訴える。〈私はあなたと二人で、おしゃべりをしたり、共通の何かを楽しんだりしてエネルギーを蓄え、大きなものへ向かっていきたいと思っているよ〉

 その〈大きなもの〉とは、〈私達を競争させるものたち〉――作中の翔子と同様、本作を未読の方は、栄利子の〈意図するところが分からず〉首をかしげるだろう。それでいい。それが、いい。既読の人は、きっとうらやむはずだ。僕だってうらやましい。新しい読者は、栄利子が続けて口にする言葉をまっさらな状態で読めるのだから。〈私達を競争させるものたち〉の正体を知らされた瞬間の「そうだったのか!」という衝撃と、それでいて「ああ、自分は誰かにこう言い切ってもらえるのをずっと待ち望んでいたんだ」という安堵、その相反するものを同時に、存分に味わえるのだから。

 しかし、ここからが本作の、そして柚木麻子さんという作家の真骨頂(の前半)――。

 本作は決して、二人が再び〈無敵の二人組〉になって〈私達を競争させるものたち〉と闘い、あまつさえ勝利を収めるような、単純な共感バンザイの物語ではない。むしろ共感を追い求める栄利子が大きなものを失っていく様子を容赦なく描き尽くし、冷静であったはずの翔子の弱さにもよけいな斟酌を加えず、読者一人ひとりの中にある「栄利子のような部分」「翔子に似たところ」をえぐっていく。

 なにしろ、女友達に最も恵まれている真織の描き方を見てもらえないか。並みの書き手なら彼女を座標の原点、誰よりも安定した、読者が共感しやすい位相に置くはずなのに、柚木さんは、なんともエキセントリックな、共感の極北にあるような人物として造型したのだ。これ、同業者の端くれとして、「ホントにすごいことなんですよ」と声を大きくして、完敗のお手上げのポーズとともに言っておきたい。

 なるほど、ということは……と、あなたはうなずきかけるだろうか。いや待ってくれ、早とちりしないでいただきたい。「人間なんて、しょせん一人で生まれて一人で死んでいくんだから」という醒めた着地点を持つ物語なんだな、と誤解しないでもらいたい。

 ここからが、作家と作品の真骨頂の後半になる。

 栄利子と翔子は、物語の最後の最後で、共感とは違うものに根差した、「ともにあること」を打ち消したうえで成立する友情を結ぶ。あの幸せな一夜は取り戻せなくとも、二人の未来は、取り戻せない一夜の記憶にこそ支えられるはずなのだ。

 既存の価値観の中では、それを「友情」とは呼べないかもしれない。しかし、柚木さんは、その価値観を激しく揺さぶって、最後はねじ伏せるように、読者に肯わせる。
これは、すさまじく、素晴らしい、友情の物語なのだ――と。

 打ち明けておく。

 ここまでは、じつは単行本の刊行時に一読して感じたことを、ちょっと理屈を整えて語ってみただけである。「二〇一五年三月時点での『ナイルパーチの女子会』案内」とでも言えばいいだろうか。

 僕は、同時代を生きる現役作家の作品を追いかける最大の愉しみは、新作と過去の作品とを結ぶ、いわば星座をつくることにあると思っている。

 二〇一五年三月の時点では、『ナイルパーチの女子会』が柚木麻子さんの最新作――線を引いて結ぶ先はすべて過去の作品である。できあがった星座から浮かび上がるものは「(女性同士の)友情」であったり、「女性同士の人間関係に向けられるステロタイプな決めつけへの(時として辛辣で、時としてユーモラスな)異議申し立て」であったりした。実際、二〇〇八年に「オール讀物」新人賞を受賞したデビュー作「フォーゲットミー、ノットブルー」以来、それらの主題は常に柚木さんの作品群に流れていて、本作はその到達点の一つになる作品だと思っていたのだ。

 だが、二〇一七年秋、拙稿執筆のために再読したときには、また違うことを感じた。もはや、本作は柚木さんの最新作ではない。当然である。柚木さんは現役の最前線、誰よりも新作が待ち望まれている作家なのだから。

 そんな「『ナイルパーチの女子会』以降の作品」の中に、二〇一七年四月刊行の長編『BUTTER』がある。実際に起きた首都圏連続不審死事件(裁判では「殺人」として、木嶋佳苗被告の死刑が確定した)のディテールが見え隠れするこの作品もまた、『ナイルパーチの女子会』同様に刊行直後から大きな反響を呼んだのだが、両作品を線で結んでみると、『ナイルパーチの女子会』の見え方が、いままでとは違ってきた。単行本での初読時には小さな遠景に過ぎなかった一人の女性の存在が、急に迫り上がってきたのである。

 一九九七年に起きた、東電OL殺人事件の彼女――。

 一流企業のキャリア社員でありながら、夜な夜な街娼を続けていたすえに何者かに殺されてしまった、未解決事件の被害者――。

 作中では中盤に、二、三度〈東電OL〉として登場するだけの彼女だが、『BUTTER』の読後に当該箇所を読み返してみると、とても通りすがりではすまない重い存在感を持っていることに気づかされる。

〈東電OLにはきっと、女友達がいなかったのだろう。(略)悩みや悲しみを分かち合う同性の友達がいない、会社と家との往復だけの日々。自分が本当はどんな好みを持ちどんな鬱屈を抱えているかもよく分からず、透明人間のような気持ちで日々を生きていたのではないか。だからこそ、見知らぬ男達の中に自分の輪郭を探しに行ったのだ〉

 ここにも、栄利子や翔子と同じ、輪郭という言葉が出てくる。

 東電OL殺人事件と首都圏連続不審死事件という、二つの現実の事件が、優れたフィクションである両作にどこまでの影響を与えたかの考察は、この小文の任と書き手の力量を超えている。ただ、両作に共通する参考文献が『毒婦たち 東電OLと木嶋佳苗のあいだ』(上野千鶴子・信田さよ子・北原みのり著/河出書房新社刊)だというのを考えると、〈東電OL〉〈木嶋佳苗〉よりもむしろ、二人の〈あいだ〉にいる存在(そこには栄利子も翔子もいるし、真織もいるし、もちろん読者一人ひとりも、男性女性の別を超えて、いるのだろう)への作者のまなざしを、意識せざるをえなくなる。

 そうやって両作を結んで、新たな星座を夜空に描いてみると、不思議なことに、『ナイルパーチの女子会』の読後に最も印象深く思いだすのは、『BUTTER』のこんな箇所――。

 現実の木嶋佳苗死刑囚を彷彿させる梶井真奈子、〈熟れた巨峰〉に譬えられる〈黒々とした大きな丸い瞳〉を持つ彼女(その瞳の描写は、ナイルパーチの〈大きな赤く光る目玉には何の感情も湛えられてはいないのに、すべてを見透かしているような厳しさが感じられた〉にも重なり合うだろう)は、物語の主人公・里佳に、問いかけるのだ。

〈さあ、この世界は生きるに値するのかしらね?〉

『ナイルパーチの女子会』には、同じフレーズは登場しない。登場しないのに、なぜか、その問いかけこそが、『ナイルパーチの女子会』の、「(女性同士の)友情」よりもさらに柄の大きな主題に思えてならない。

 同性の友達がいなくても。

 ひとりぼっちでも。

 自分の輪郭をはっきりと定められなくても。

 夢見るころは過ぎ、奇跡のような美しい瞬間も過ぎ去ったあとも。

 この世界は、生きるに値するのか――。

 その問いかけに対して、『BUTTER』の里佳が物語の最後の最後――ほんとうに単行本の本文最終頁で返す答えは……もちろん、それを明かすほど、僕は無粋ではない。

 では、同じ問いに、栄利子と翔子なら、どう答えるのか。

 こちらもまた、先回りして語るべきものではないだろう。本作を読了したときに、あなたの胸に残るもの、それがすべてである。

 現役の最前線の作家の作品を追いつづける醍醐味は、「過去の作品」はもとより、「次の作品」との間に描かれる星座を堪能できることだろう。

 本作『ナイルパーチの女子会』は、柚木麻子さんがデビュー以来追い求めてきた主題の一つの到達点であり、その後の柚木さんが展開する文学への結節点でもある。

 その意味で(あわてて言っておかなくちゃ)――本作が第二十八回山本周五郎賞を受賞したことは慶賀にたえないが、それに負けないほど/もしかしたらそれ以上に、第三回高校生直木賞に輝いたことを言祝ぎたい。

 若い世代の読者は、選考会の議論で、〈はじめは女子特有の関係性の物語だと思って読んでいたが、今日の議論を通じてもっと普遍的なものにつながっていると気づきました。もがいているところは男でも女でも一緒〉〈これを読むことで私の中に新しい価値観が生まれた〉などと素晴らしい評言を次々に口にした。作者より二十歳近く年長、だから高校生にとっては親父さんよりさらにオジサンの僕は、いいぞ、頼もしいぞ、と高校生たちに拍手する一方で、そうか、きみたちにも栄利子や翔子の苦しさや悲しさがわかるんだなあ、と少し胸が締めつけられて、だからこそ、もう一度、喝采とともに語りかけよう。

 よかったな、きみたちには柚木麻子さんがいる。きみたちは、柚木さんが書きつづける作品群から、どんな星座を描くのだろう。それをいつか教えてほしい。

 一生付き合える作家だぜ、このひとは。

文春文庫
ナイルパーチの女子会
柚木麻子

定価:880円(税込)発売日:2018年02月09日

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