大作家でありながら清貧を貫いたトルストイは、お金との決別を宣言した。だがここにも、隠された事実がある。彼の妻は極度の浪費家で、夫婦生活は絶えず喧嘩ばかりだった。八十二歳の彼は耐えかねて家出をし、真冬のロシアの街を三日三晩歩き通した末に、駅舎で倒れ息を引き取った。
一男もトルストイと同じだった。どんなに目を背けても、お金の奴隷であることに変わりはなかった。
仕事を終えた一男は、真っ暗な裏口からパン工場を出る。瞬間、吐く息が白くなる。安物の腕時計を見ると、三時を過ぎていた。眠気と疲労で体は重く、自分の体ではないようだった。工場の隣にある寮に向かって、砂袋を引きずるような足どりで歩き、鈍い金属音を立てながら階段を上がる。二階に並ぶ薄い木製のドアを開けると、黒と白とグレーのマーブルが美しい子猫が目を覚まして、一男の足元にすり寄ってきた。
工場の裏手に住み着いている野良猫が、先月たくさんの子猫を産んだ。休憩時間に覗きにいくと、一匹の子猫と目が合った。猫を飼う余裕は到底なかったが、気づけば家でミルクを与えていた。
「ちょっと待ってて、マーク・ザッカーバーグ」
一男は、若くして億万長者となった男の名前を冠する子猫にキャットフードと水をやる。ずいぶんとかわいらしいIT長者が食事に夢中になっているすきに、部屋を出て共有スペースにあるシャワーを浴びた。外を歩いて部屋に戻ってくるまでのわずか数十秒で、濡れた髪の毛が氷のように冷たくなっていた。急いで湯を沸かし、インスタントの珈琲を淹れる。買い置きしていたバナナと、工場から支給された食パンで朝食を済ませテレビのニュース番組を見ていたら、ガクッと電池が切れるかのように眠ってしまった。
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