小窓の多い時代になったものだと思う。フェイスブック。ブログ。インスタグラム。個々の多様な発信によって、私たちは一所にいながらにして無数のきらきらした日常を窺うことができる。明るく楽しげでポジティブな人々の営み。それは決して悪いことではない。見ているこちらも明るい気持ちになる。けれど、自意識という名の枠が絶えずつきまとうその小窓は、時としてあまりに眩しすぎやしないだろうか。私たちの日常は本当にそんなに明るいのだろうか。それほど毎日楽しいのだろうか。格好悪いこと、醜いこと、後ろ暗いことを透かさない小窓は、私たちに未体験の楽しみを教えてくれても、ひと皮剥けば泥沼の人生に立ちむかう力は与えてくれない。
だから、私は宮本輝の小説を読む。冷風も温風もがんがん吹きこむ巨大な窓のような、清も濁もなみなみ湛えた底なし沼みたいな、比類なきその作品世界にときどき無性に浸かりたくなる。そこには何も気取っていない剥きだしの人間たちがいて、生きることの苦しみが容赦なしに焼きつけられ、きらきらしたハッピーエンドなど一つも存在しないのに、なぜだか読むほどに力が湧いてくる。作中人物たちの生々しい人生の重さに、自分の中で眠らせていた生命力をどつかれるような感覚。他者の営みの中に私たちが探し求めているのは、生きることの真実、ただそれだけではないだろうか。
本書『真夏の犬』はその点で決して読者を裏切らない一冊だ。ジャンルを問わず宮本輝作品には数々の名作があるけれど、九つの短篇小説で編まれた本書は、そのパンチ力において大長篇の上下巻にも決して引けをとらない。それは収められた一篇一篇がそれぞれ独立した作品でありながらも、どこかで通底した匂いや陰影を感じさせ、全体として一つの濃厚な世界像を築きあげているせいかもしれない。
昭和三十年代とおぼしき大阪の貧しい界隈。それが九篇の大半に共通する背景だ。まだ日本人の多くが貧しかった時代にあって、人並み以上の困難を抱えた人々が汲々と毎日を凌いでいた場所。怪しい商売に手を出したり、金策に駆けずりまわったり、事業に失敗して姿を暗ませたり、売るものがなくなったら体を売ったり、そんな荒っぽくもたくましい人々の赤裸々に生きる姿がそこにはある。
私が最も衝撃を受けた表題作の「真夏の犬」では、中学二年生の〈ぼく〉が父親から新商売の助っ人として廃車置き場の見張り役を命じられる。真夏の直射日光。孤独。襲い来る野犬たち。〈ぼく〉を見舞う試練はあまりにも激烈で、読み手の肉に刺さるような臨場感に満ちている。その上、ひさびさの収入に喜ぶ母親を思う〈ぼく〉の苦労は報われないどころか、最後に極めつけの大試練(なかなかひと夏で一人の少年がこれほどひどい目に遭えるものではない、というほどの)が待ちうけているのである。そこには教訓も寓意もない。ただ生きるために戦う少年の汗と血があるばかり。だからこそ、そのひたむきな奮闘は焼けつくような痛みを伴って読み手の胸を打つ。これは、ヨットで太平洋を横断した青年に勝るとも劣らない、一人の少年のまぎれもない冒険譚だ。
一方、その冒険を陰で支える母親もまた本作においては終始気になる存在感を漂わせている。母は強し。その一語に尽きるのかもしれないが、散々な目に遭った上に父親の背徳まで垣間見た少年の話が悲壮感をもって終わらないのは、誰よりも夫から痛めつけられているはずの母親が、息子の前ではあくまでも巨岩のようにどんと構えているからだろう。母性溢れる最後の台詞「目の玉に当たらんで、ほんまによかったなァ」に、〈ぼく〉同様に心をほぐされた読者も少なくないのではないか。
母親がキーパーソンの役目を果たすのは、「赤ん坊はいつ来るか」でも同様だ。読み手をも暗い水底へ誘うような危うさを孕んだこの一篇において、主人公の〈ぼく〉が回想する母親は、一人鮮やかに屹立する灯台のような人だ。赤ん坊ほしさに心を壊す隣家の妻。追いつめられた末に金で赤ん坊を買おうとする夫。博打に負けて背中の刺青を肉ごと切りとられた男。暗い現実があまりに重なると、人はどこかで麻痺していく。そんな馬鹿なと思えず、そんなものだと思うようになる。が、日々の生活に追われながらも隣家の夫妻を常に思いやっている〈ぼく〉の母親は、川から自分たちの赤ん坊が流れてくるはずだと訴える人妻に流されず、共に沈まず、決然と言う。「ほんなら、小沢さんの赤ちゃんを捜そ」。そして実際、懐中電灯を握りしめ、夫妻を川へ導いていくのである。世界の捻れに屈しないその威勢もさることながら、私は最後に彼女がつぶやくなんでもない一語に救われる思いがした。「世の中には、恐ろしいことをする人らがいてるもんやなァ」
無論、女の誰しもが人の母として存在するわけではない。「チョコレートを盗め」では家庭を持たないおでん屋の女将が描かれているが、身持ちが堅いと思われている彼女の過去には暗い影がある。その闇に潜んでいたものが最後に顔を覗かせる瞬間、ぞくっとするような戦慄と共に、家庭に希望を見出せなかった女の切なさがひしと迫ってくる。
過去に影を持つのは「暑い道」の鮮烈なヒロイン、さつきも同様だ。美しい混血の少女である彼女がどんな男も受け入れる女神のような包容力を持つに至った陰には、伯父をして淫売となじらせる母から生まれた屈折が見え隠れしている。故に、彼女は男と交わるたびに「一番好き」と心の上位を強調せずにいられなかったのかもしれない。自己破壊的な人恋しさを抱えた美少女の行く末は推して知るべしだが、だからこそ余計に、最後の最後に現れた意想外の相手(私は彼が大好きだ)には心からの喝采を送りたくなった。
家族の影を引きずる女たちの一方で、本書全体を通じて、男たちは父や夫である以前にまずどこまでも男として存在している印象が強い。たとえば、所帯持ちでありながらも妻子の匂いを感じさせない「香炉」の〈私〉。そして、自ら営む喫茶店に通う風変わりな女に惹かれる「ホット・コーラ」の英男。この両篇は共に謎を追うミステリータッチで綴られているけれど、今ある現実に対してどこか心ここにあらずというか、掴みどころなく揺蕩(たゆた)うような主人公たちの男心も、私には普遍のミステリーに思えた。
不思議な怖さを感じさせるのは「駅」だ。五十路を過ぎた〈私〉がローカル線のホームに居合わせた男にその駅との因縁を物語るこの小説は、意外な展開を遂げる過去の恋愛話もさることながら、しばしば語り手を動揺させる“ある音”が妙に気になる一篇だ。駅のホームにいる〈私〉の耳へ届く猛禽の声──具体的な響きや正体が明かされていないからこそなお不気味な描写がくりかえされるほどに、私にはそれがこの世ならぬものに思われてきてならなかった。ほろ酔い気分の男が吐露する過去の不義を、生涯笑顔を絶やさなかったという亡き妻はとうにお見通しだったのではないか。
昭和の男といえば頑固一徹、黙して語らず、口より先に手が出るイメージがあるけれど、最もその像に近いのは「力道山の弟」の〈私〉が振り返る父親かもしれない。同時に、私が最も掴みがたさを感じたのもその父だった。彼の友人の元内縁の妻、喜代ちゃんに対する並々ならない執心の底には何があるのか──最初は色恋絡みと踏んでいたものの、安っぽいいかさま師と関係を持った喜代ちゃんへ示す尋常ならざる怒りの核にあるものが顔を覗かせてくるにつけ、通り一遍の昭和の男像では括れない彼の人間としての奥行きが広がっていった。喜代ちゃんといかさま師の間にできた娘に偽物の釘を見せ、「これは鉄と違う。“ハンダ”や」と笑うあたりはけっこう人が悪くもあるが、生涯、手元にいかさま師由来の力動粉末を置いていたところを見ると、語られざる何かをまだ胸懐に秘めていたのかとも思えてくる。彼の真意が気になるのと同時に、一筋縄ではいかないこの男をはたして喜代ちゃんの方はどう思っていたのかも気になる読後感だった。
最後に──読み返すほどに人間への興味が深まる本書の魅力は、かくも多彩な〈男〉と〈女〉の生きる姿が、収められた九篇中の五篇において〈少年〉のまなざしで語られている点にもある。見たもの聞いたものをまっすぐ受けとめる体力を備えた瞳。解釈に長(た)けた大人たちとは別種の強さをもって、彼らは世界に立ちむかう。そして大概は敗れるのだが、その先に広がる彼らの未来──目の前の悲劇を飛びこえた先にある可能性が、読み手に救いを残してくれる。
その観が顕著な「階段」では、主人公の〈私〉が高校時代に陥った地獄の日々を回顧する。父親の暴力に起因する頭痛に苦しむ母親が、よかれと思った兄の助言で酒を口にする。たちまちアルコール中毒となり、金を持てば酒で使いはたし、酔っては市電のレールに寝転んで「轢(ひ)いてえなァ」と肌も露わな醜態を晒す。父親はとうに蒸発しているし、兄の助けも得られない。この辛苦を極めたどん底で、〈私〉はもはや母と言えない母と暮らすアパートの階段に来る日も来る日も座りつづける。彼にはまだ母親を助ける力はない。母親を殴りたい衝動にも、金への誘惑にも抗(あらが)えない。それでも、少なくとも彼は逃げずにそこへ留まりつづける。自らの暴力性や邪(よこしま)な心から目を逸らすことなく向きあい、母親の側に居続けることで、彼はやはり母親を守っていたのだと思う。
最後の一語まで吸い尽くすように読み、ぱたんと本を閉じる。よし、と思う。四の五の言わずに生きていこう、と。それが宮本輝の小説だ。
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『新たな明日 助太刀稼業(三)』佐伯泰英・著
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