特集

歴史学者廃業記 歴史喪失の時代

文: 與那覇 潤

『知性は死なない 平成の鬱をこえて』

神話とサブカルチャーに飲みこまれて

 聖地巡礼という用語も、近年はすっかり「人気アニメの舞台になった土地を訪れること」の意味になったようですね。まずアニメの世界観にはまったうえで、頭の中で照合しつつ「ああ、ここがモデルだったのか」と確認するために、現地へ旅行にいく。もちろん、これはなにも悪いことではありません。

 しかし、それが現実の歴史となると、どんなものでしょうか。大学で教えて実感したのは、歴史学者はほんらい、これまで語られてこなかった「新しい歴史像」に出会うために、史資料を読みといたりフィールドに出たりしている。ところが授業の受講者には、むしろ「既存の歴史像」を前提としたうえで、それを「より身近に感じてみたい」といった感覚で、古文書に触ったり史跡をめぐりたがる人がおおいのですね。好きなアニメキャラのフィギュアやグッズを、手元に置きたくなるのと同じです。

 これは、もともとの意味での聖地巡礼になっているともいえます。一見すると一次史料(一次資料)に触れているようでいても、それを新しい歴史像への入り口としてはとらえずに、むしろ自分の頭の中にすでにある歴史(=神話)上の登場人物がのこした「聖遺物」として、物理的な接触を楽しんでいる。よしあしは別にして、それは近代的な学問とは関係のない、各地の部族社会でよくみられる光景です。

 そういう「聖遺物との接触をつうじた神話的な過去のイメージとの交歓」ではだめで、一本、すじの通ったクロノロジカル(年代記的)な歴史観を持たねばならない、という発想自体が、いまふりかえれば特殊なものだったのでしょう。そういう狭義の歴史意識は、地中海沿岸と東アジアの古代文明に固有のもので、たまたまそれらの地域でのちに近代国家が発達したがゆえに、価値ある規範とみなされてきたにすぎません。

 たとえるなら、人類の始原から終末への流れを語る歴史観をもつキリスト教と、そんなものとは無縁な先住民の神話の世界観とのあいだに、ほんらい優劣はありません。前者のほうが「進んで」「知的・体系的に」みえたのは、たんにキリスト教文化圏が軍事技術でほかの地域を圧倒したからであり、そういった植民地主義の時代が終われば、捨てさられてしまっても文句は言えません。

 もはや物語(ストーリー)の流れをたどることに意味はなく、すべてはキャラクターの組みあわせからなるデータベースやゲームになっている。そういう議論が「サブカルチャーの世界は新しいんですね」といった風潮で、流行した平成前半の空気が、いまはなつかしく思い出されます。じっさい、オンラインゲームとタイアップした作品制作の手法が一般化すると、必要なのは無限に着せかえ可能なキャラクターの集合体であって、重たいストーリーの存在はかえってじゃまになりました。

 いま私たちが目にしているのは、そういった変容がサブカル内の「架空世界」のみではなく、現実の歴史をも飲みこみつつある状況ではないでしょうか。文学史的には時系列すら通っておらず、たんに作家名をキャラクターとして借りているだけのアニメが、その作家の記念館で企画展になる。おそらくはそういう仕事をしないと、政治家に「がん」呼ばわりされてしまうのでしょう。大変だな、と思います。



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知性は死なない與那覇 潤

定価:本体1,500円+税発売日:2018年04月06日