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言葉に潜むコトバ

言葉に潜むコトバ

文:若松 英輔

『キリスト教講義』(若松英輔 山本芳久)


ジャンル : #ノンフィクション

『キリスト教講義』(若松英輔 山本芳久)

 日本におけるキリスト教は、まだ「若い」。フランシスコ・ザビエルの来日を基点にすれば、ずいぶん長い時間が経過しているのではないかというかもしれない。しかし、日本ではちょうど、近世に当たる時代はキリスト教の禁教の時期だった。この期間でも信仰を守った人々はいて、完全に血脈が途切れたわけではなかったが、広く日本全土でキリスト教が根を下ろすことにはつながらなかった。私たちがキリスト教を再び受容したのは明治維新以後である。

 目印となる出来事は幾つかある。一八六七年の長崎、大浦天主堂でのキリシタン発見、あるいは一八七七年、内村鑑三、新渡戸稲造が札幌農学校で「イエスを信ずる者の誓約」に署名したのもその一つに数えることができるだろう。

 キリシタン発見から数えても、私たちのキリスト教の歴史は一五〇年ほどでしかない。内村鑑三にも同質の自覚があった。英語で書かれた『代表的日本人』がドイツ語で訳されたとき、彼は自らに回心が訪れるまでの経緯にふれ、次のような一節を書いている。ここでの「回心」は、キリスト教への入信だけを意味しない。入信は無数にある回心の始まりに過ぎない。誤解を恐れずにいえば、入信と回心が折り重ならないこともある。

「本書は現在の私自身を述べたものではありません。キリスト者としての今の私が、接ぎ木させられた、もとの台木を示すものであります」、また「神の選びの業は、わが国民のうちに二千年以上も昔から働いていたのであり、ついに私も、主イエスキリストの僕として選ばれることになったのであります」と書く。土に切り花を刺すようにキリスト教を受容したのではなかった。二千年の歳月を費やし、大地に深く根を下ろした日本的霊性という樹木に接ぎ木されたというのである。さらに内村は「私は、宗教とはなにかをキリスト教の宣教師より学んだのではありませんでした」と述べ、こう続ける。

「その前に日蓮、法然、蓮如など、敬虔にして尊敬すべき人々が、私の先祖と私とに、宗教の真髄を教えていてくれたのであります。何人もの〔中江〕藤樹が私どもの教師であり、何人もの〔上杉〕鷹山が私どもの封建領主であり、何人もの尊徳が私どもの農業指導者であり、また何人もの西郷が私どもの政治家でありました。その人々により、召されてナザレの神の人の足元にひれふす前の私が、形作られていたのであります。一人の人間が、まして一国民が、一日にして回心させられるものなどと考えてはいけません。真の意味での回心とは、何世紀をも要する事業なのです」。(鈴木範久訳)

 本書でカール・ラーナーが提唱した「無名のキリスト者」という視座にふれた。内村の前に西郷、鷹山、二宮尊徳、藤樹、日蓮は皆、「無名のキリスト者」として顕われた。こうした言葉を残しているのは内村だけではない。若き日、内村に出会いながらもその門を離れカトリックになった吉満義彦にも同質の言葉がある。吉満も千年の歴史をさかのぼりつつ、日本におけるキリスト教の文化内開花の可能性を探る。

「過去一千年余の日本精神文化における仏教のなした意味を聖徳太子や弘法大師、その他鎌倉時代前後の日本精神史上に永久に輝く幾多の偉大な宗教的天才の例についてここに思いあわせてみても、来たるべき世紀におけるキリスト教的霊魂の大いなる開花結実をまさに超自然的飛躍において考え見る」、それは「私たち日本人にとって限りない希望の夢であり、神の摂理の今後の世界史的展開が過去の二千年間のそれに決してその奇蹟的讃美においてまさるともおとることなかるべきを思う」

というのである。さらに彼は次のように言葉を継ぐ。

「その点で私たちは私たちとして、日本文化特にその魂の生命文化のために特別にも、キリストの愛にかられた祖国と同胞への愛の今日における今後における緊急なる使命を思うのであります」。(「マリタン先生への手紙」『吉満義彦全集 第五巻』一四五頁)

 若き日、吉満はフランスにおいて当時、思想界の最前線にいた人々に哲学を学び、ラテン語をはじめ、複数の外国語に通じていた。国際性という点では、今日もなお、カトリック哲学で彼を凌駕する人物は出現していないように思われる。そうした彼も「日本文化特にその魂の生命文化のため」、「キリストの愛にかられた祖国と同胞への愛」を現実のものとするこが「緊急なる使命」だというのである。内村と吉満の言葉は今も生きている。本書は、今日における「緊急なる使命」に参与し得るものであることを願っている。


 発言者の二人のほかにも、この本の誕生に精力を注ぎ込んだ人たちがいる。編集者の鳥嶋七実さんは、世にいう編集の領域を大きく越えた創造的な参与の仕方でかかわってくれた。そのほかにも校正者、装丁家の尽力がなければ言葉が本になることはなかった。また、直接参与しなくても、有形無形の支えを送ってくれる人々もいた。彼、彼女らも同志でもあり、本書の完成を共に喜ぶと同時に、この場を借りて、心からの感謝を送りたい。

二〇一八年十一月十一日 人生の同伴者との出会いを記念して

 

 キリスト教とは何かを語る、という営為は大きな矛盾をはらんでいる。宗教とは語るべきものではなく、その霊性的時空と呼ぶべきものを生きてみなくては分からないものだからだ。

 もちろん、キリスト教をめぐる概念、あるいは知識を語ることはできる。しかし、それはレストランのショーケースに並んだ蝋細工のようなもので、いくらそれらを取り入れても飢えどころか空腹も満たすことができない。新約聖書には、食べる場面や「渇く」という言葉がじつに印象的に用いられている。キリスト教が求めるのは、心の糧を眺めることではなく、それらを摂り入れ、さらにはそれを他者と分ち合うにほかならない。

 今回の対話で、私たちが留意したのは、概念を説明することに帰結するような話をしないことだった。調べ得る事実を補助線にすることはあっても、それで終わりにすることがないように心がけた。現代人は、表現されたものを受けとることに慣れているが、体現されたものは同じようにはいかない。しかし、宗教の場合、言葉や他の芸術によって表現されるものは、言語表現に勝るとも劣らない重要性を持つ。

 岩下壮一神父は、昭和前期、カトリック教会のみならず、思想界にも影響を与えた。彼は司祭であっただけでなく、優れた哲学者であり、同時に静岡の神山復生病院というハンセン病施設で、約十年病院の院長を務めた。

 当時のハンセン病には特効薬がなく、患者たちは耐えがたい大きな試練を背負っていた。その施設に足を運ぶことを誰もが避けていた状況のなか、ある期間、岩下はペンを手放し、患者たちと共に生きる道を選んだ。のちに彼はこの病を背負った人にいかに多くを教えられたかと語る言葉を残している。キリスト教とは何かの認識を深めようとするとき、私たちは岩下のような人物が書いた言葉だけでなく、生きることで表現したもう一つの「コトバ」を受け止めなくてはならない。

 一九六〇年、第二ヴァチカン公会議前夜、須賀敦子はミラノに渡り、コルシア・デイ・セルヴィ書店で働き始める。「書店」といっても本を販売するだけでなく、出版部門も持つ場所で、何よりもイタリアにおけるカトリック左派の人々による霊性の解放運動の拠点だった。『コルシア書店の仲間たち』で須賀が、この書店の光景を描き出しているとても印象的な文章がある。「夕方六時をすぎるころから、一日の仕事を終えた人たちが、つぎつぎに書店にやってきた」との一節のあと彼女は次のように記している。

作家、詩人、新聞記者、弁護士、大学や高校の教師、聖職者。そのなかにはカトリックの司祭も、フランコの圧政をのがれてミラノに亡命していたカタローニャの修道僧も、ワルド派のプロテスタント牧師も、ユダヤ教のラビもいた。そして、若者の群れがあった。(中略)共産党員がキリスト教民主党のコチコチをこっぴどくやっつける。だれかが仲裁にはいる。書店のせまい入口の通路が、人をかきわけるようにしないと奥に行けないほど、混みあう日もあった。(『須賀敦子全集』第一巻、河出文庫、二一九~二二〇頁)

 この場所は、宗派という狭い枠から抜け出て、心を通わせる言葉と出会いたいと願う「異端者」の群だったというのである。数年前、この書店を訪れたことがある。書かれている通り、けっして大きな空間ではない。しかし、ここから時代を変えるようなうねりが起った。コルシア書店で働きながら須賀は、ガリ版刷りの『どんぐりのたわごと』と題する冊子を作成し、日本の友人らに配っていた。そこにはコルシア書店で取り扱う本の一部が翻訳され、須賀が言葉を添えていた。そこに、次のような一節がある。

 教会には異邦人が欠けている。というのは、キリストのからだが成長しきるためには、あらゆるものを教会に同化せしめねばならぬからである。人類の多様な類型は、新しい聖性の横顔が可能だと語っている。教会の普遍性 ということは、この、すべてをキリストのうちに同化させるという能力にほかならない。たえず新しい形式のもとに、キリストのただひとつの神性が、世にしめされんがために。(「技術の神学にむかって」『須賀敦子全集』第七巻、河出文庫、六四~六五頁)

 真にキリスト教とは何かを見極めようとする者は、信仰を同じくする同志だけでなく、「異邦人」たちとも言葉を交わさなくてはならない。それがイエスの歩いた道だった、というのである。

 四つの福音書で描きだされるイエスは、いつも「異邦人」と言葉を交わす。ここでいう「異邦人」とは異なる信仰を持つ者、という意味に限らない。何らかの意味で世に疎外された、すべての者たちを意味している。本書での対話がそうした意味におけるキリスト教へ接近する道に連なるものであることを願って止まない。


若松英輔(わかまつ・えいすけ)
東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授、批評家。1968年生まれ。慶應義塾大学文学部仏文学科卒業。「越知保夫とその時代 求道の文学」で三田文学新人賞受賞。『小林秀雄 美しい花』(文藝春秋)で角川財団学芸賞受賞。著書に『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』(慶應義塾大学出版会)、『魂にふれる 大震災と、生きている死者』『池田晶子 不滅の哲学』(トランスビュー)、『吉満義彦 詩と天使の形而上学』『内村鑑三 悲しみの使徒』(岩波書店)、『生きる哲学』(文春新書)、『悲しみの秘義』(ナナロク社)、『イエス伝』(中央公論新社)、『常世の花 石牟礼道子』(亜紀書房)など。

単行本
キリスト教講義
若松英輔 山本芳久

定価:2,035円(税込)発売日:2018年12月15日

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