いっぽう、世の常として、幸福な関係は破綻や波乱をふくむ。「曲がった指」では、ミラノで生まれ育った女優ニニが忍耐を恃(たの)みとして生きたけなげさ、切なさを。「私たちの弟」では、手仕事の好きな女友だちコンチェッタから打ち明けられた身内話の不条理を。「二十分の人生」では、手を貸して歩いた老女とのゆきずりの会話に、老いの屈託を。ひとと街と風景が入念に描かれ、イタリアというモザイク模様が組み上がってゆく。
「いつもと違うクリスマス」は、著者ならではの筆の運びに魅了される一篇だ。知人のバルバラとはそう親しい間柄ではない。ところが、いくつかの偶然に後押しされ、ヴェネツィアへのクリスマス旅行に出かけることになった。クリスマスが大嫌いだと言うバルバラの暮らしぶり。スイスとの国境近くに住むという家族の背景。出発当日、犬連れでプラットフォームに現れた彼女のいでたち。ヴェネツィア駅や車内の情景。築五百年の古い宿。冷気がしのびこむ夜の街。町外れのピッツァの店……著者は自身の気配をそっと押しとどめながら、それらを目前に登場させ、扉をつぎつぎに開けてゆく。クリスマス・イブは、特別に用意された舞台装置。そして、バルバラによる記憶の語りによって、旅の収束は意外な方向へ向かう。こうして読者に手渡されるのは、クリスマスをめぐる世界でただひとつの物語だ。
表題作「ロベルトからの手紙」。私たち読者自身が、アメリカからの封筒をじかに受け取る心地をおぼえて忘れがたい。むりにでも成長しなければ生き延びられなかった少年が呪縛から解き放たれ、異国の地で十九歳を迎える喜び、すがすがしさ。ついにロベルトが手中にした晴れ晴れと明るい解放感を寿(ことほ)ぎながら、閉塞感や世知辛さにまみれて青息吐息の大人はほっと胸をなで下ろし、生きていればきっと荒波を渡っていけるのだとみずからを鼓舞(こぶ)する。ロベルトから届いた手紙は、すなわち物語の贈り物である。
著者の視線は、生きて暮らす人間の背後に潜む時間のふくらみに注がれる。遥かな時間、遠い場所、なまなましい感情に触手を伸ばしながら紡がれる言葉。それらを共鳴させ、唯一無二の物語が生みだされる。
イタリアに約四十年暮らし、単身生きてきた著者にとって、見る、聞く、感じる、思考する、一連の流れは、つねにものごとのはじまりであり続けただろう。しかも、組織に属さず、たったひとりで働きながら難場を切り拓いてきたのだから、見誤れば命取り。「孤立無援のことも多かった」「私のイタリアでの仕事は、前人未踏のような環境に一人で入っていくことも多く、若い頃は足元がふらつくこともありました」(「あとがきに代えて」)。だからこそ、イタリア各地で見聞した経験を懸命に咀嚼し、血肉とする必要があった。出会った人々をいったん自身の心の奥底に息づかせ、内なる対話をかわす必要があったと思いいたるとき、十三篇の陰影はいや増す。
思い定めて足を踏み入れたイタリアという国を理解することは、著者にとって生活すること、生きること、自分自身を育てることでもあっただろう。甘さ、苦さをともなってじっくりと熟成されたイタリアの細部は、そののち言葉という果実を実らせ、こうして現れる。
だから、私たちが出会うのは、内田洋子さんの、内田洋子さんにしか紡ぐことのできない物語の相貌である。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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