緊張して、眠れない。いよいよ明日、観光バスに乗る。
訪問地は日本国内だというのに、私にとって未踏の地ばかり。関西の育ちなので、東京のことすらよく知らない。これが友人といっしょの旅行なら、どれほど楽しい気分だったろう。
旅の連れは、イタリアからの団体なのだった。
今から三十年あまり前の話である。
大学の学生課の掲示板で、バイト募集を見つけた。
『イタリア語通訳のバイト求む(ただしアシスタント)』
まだ入りたてか、二年目の頃だったか。東京外国語大学イタリア語学科に通っていた私は、文法は何とか一通りさらったものの、実際にイタリア語を使ったことがなかった。
「うちの大学は、外国語の会話学校ではありませんのでね」
入学初日に主任教授は淡々と告げ、翌日から三ヶ月で文法を駆け抜けると、分厚い思想史の原著を配り、
「秋までに予習をしておいてください」
と、夏休みに入った。
字面のイタリアは難解で、遠い異国のままだった。
〈このバイトをすれば、生のイタリア人を間近に見ることができる〉
私は行く、私は持つ、といった動詞のイロハを反芻しながら、募集先に面談に行った。
「イタリア全土から集まった、二、三十名の観光案内です。ベテランのチーフ通訳に同行し、補佐するのがあなたの仕事です」
大手旅行会社の担当者は概略を説明し、集合時刻と場所を告げた。
初めてのイタリア語実践に緊張しすぎて眠れず、あろうことか私は翌朝の集合時間に遅刻した。
大慌てで着いた集合場所には、すでに大勢のイタリア人がいた。
全旅程バスでの移動だというのに、どの人も祝宴に呼ばれていくような洒落た装いである。手入れの行き届いた革靴は、ジャケットの袖口から覗く、腕時計の皮のベルトと揃っている。横の女性は、大きなフレームのサングラスを額の上に持ち上げて、長い髪をさりげなく押さえている。耳元には、凝った細工のピアスが揺れている。アンティークか。
全員があちこち好き勝手な方角を向き、煙草をふかしたり、連れ合いとしゃべったり、カメラを構えたりしている。どの人の仕草も、身繕い同様やや過分で目を引くが、悠然として美しい。
生のイタリア人たちを前に、ヘマも忘れて陶然としている私に、
「では、よろしくお願いしますね」
目力を込めて、声を掛ける人がいた。
田丸公美子さん。
以来、私はこの日のことを忘れたことがない。
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