随筆だろうか。
小説だろうか。
『ロベルトからの手紙』を読むとき、一瞬、脳裏をかすめる。もちろん、随筆にフィクショナルな要素がふくまれていることは大いにあるのだから、語られるものを枠組みに閉じ込めるのはさほどの意味をなさない――と重々承知していても、やはり気になってしまうのはなぜだろう。
この一文がある。
「どれも私自身が見聞きした実話です。すべて、〈足〉〈靴〉〈足元〉〈歩み〉をテーマにまとめました」(「あとがきに代えて」)
その「実話」の意味について考えたくなるのは、本書に収められた十三篇の魅力、あるいは著者が紡ぎだす言葉の世界を繙(ひもと)く手立てではないかと思われるからだ。そもそも随筆は見聞したものごとを語るだけのものではなく、小説は事実や実経験を排除するものでもなく、両者は領域を共有し合う一面がある。その重なり合いを十三篇それぞれがふくらませ、自在に押し広げるマジカルな手つきに誘いこまれる。
本書のあちこち、さまざまな足音が聞こえてくる。人間の脚は二本なのに、しかも五本の指、土踏まず、甲、かかと、足首、その構造は同じなのに、これほどまでに異なる音が響くのかとたじろぐほどだ。冒頭「赤い靴下」は、すれ違ってしまった男女のあいだに寂寞が横たわり、胸が痛い。日本で言付かったものを届けるために訪ねたミラノの家で、闖入者として遭遇した老母と男。滞在した時間は長くはないはずだが、知人マリエッラの個性的な半生を織りこむことによって人間関係の齟齬(そご)を浮き彫りにする展開がみごとだ。「目の覚めるような赤」が心を抉る残酷。足をすくわれるという常套句があるけれど、足に的を引き絞って描けば、人間はかくも無防備で脆いと見抜いてのことだ。その意味で、自分自身の足にまつわる記憶を綴る「紐と踵」もほろ苦い。名にし負うイタリア製の上質な靴と、潮風と海水にさらされて底のすり減ったデッキシューズとのあからさまな差。そのコントラストに別方向から光を当てる、駅員の道のりを刻んできた編み上げの短靴の威厳。なるほど、靴はもうひとつの人格なのだという説得力を補強するのは、優れた職人仕事によって靴を作りだしてきたイタリアの歴史や文化の厚みである。
イタリア、それもミラノに旅をすると、衣服と身体との親密な関係にはっとさせられることしばしばである。二番目の皮膚と呼びたくなるほど衣服や靴が身体にきわめて近く、「装う」「履く」という行為との距離感が薄い。これがパリならば、例の「着こなし」という言葉がすぐに思い浮かぶのだが、ミラノでは「着こなし」という言葉が想起させる体温は低い。いわば、着こなす以前に衣服と皮膚が密着している感覚を抱くのである。その背景には、ミラノという都市を長く支えてきたファッション産業の影響が存在しているのかもしれない。いずれにせよ、どうやらミラノには「着こなし」「身だしなみ」などを超えた衣服や靴との関係が存在する。ほかの土地にはない、独自の幸福な関係。その気配に、通りすがりの一旅行者はうっとりさせられるのだ。
三年前にミラノを旅したときのこと。夕暮れどきに中心街でタクシーを拾ったら、細い道は渋滞して動かない。連なった車の列のあいだを縫うようにして、長い髪をなびかせながら花柄のオーガンジーのワンピースを着た女性が軽快にすり抜けていった。素足にアザレア色のハイヒール。すると、老齢に差し掛かった運転手が感に堪(た)えないふうに、「美しいねえ。いくらでも道を譲って待つよ」。崇めるような視線を送りながら微笑んだ横顔が忘れられない。あのとき彼女を一輪のガーベラの花に見せたのは、ミラノの魔法に違いなかった。
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