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「夫婦」、「家族」という言葉にはおさまらない、詩人と小説家の関係。

「夫婦」、「家族」という言葉にはおさまらない、詩人と小説家の関係。

文:角田 光代 (作家)

『夫・車谷長吉』(高橋 順子)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #随筆・エッセイ

『夫・車谷長吉』(高橋 順子)

 最初の絵手紙から二年後、二人ははじめて曙橋の喫茶店で顔を合わせる。世界はゆっくりかたちづくられていく。そのかたちづくられていく世界に私はたじたじとなる。たとえば、小説家が詩人に絵手紙を書いたきっかけは彼女の詩を読んで感電したからである。しかし単行本化するときに、詩人は彼が感電した部分を消去している。それはなぜか、と小説家は問う。そして彼は、自身の小説に対する思いを書き綴って詩人に送る。これからかたちづくられようとしている世界には、すでに異様な緊迫感が満ちている。

 最初の絵手紙から五年後の九三年、作家は芸術選奨文部大臣新人賞と三島賞を受賞し、その後、二人は結婚する。異様な緊迫感は未だ張りつめているように私には感じられるが、でも、結婚前後の部分は読んでいてやはり気持ちがあたたかくなる。人を思うこと、その人と見知らぬ光景を見たいと願うこと、その人とおいしいものを食べたいと願うこと、恋愛の幸福感に私も包まれる。小説家も詩人も、それを几帳面にも言葉にする。手紙にし、俳句にし、詩にし、小説にする。

 同じ屋根の下で作家が二人暮らすことはできない、という言葉は昔からよく聞く。作家の夫と結婚、ものを書くことをやめた妻もいるという噂も、ずいぶん昔に聞いたことがある。だからこの二人の結婚について「一つ家に作家と詩人の表現者が二人いるのは、虎が二ひきいるようなもの」と危惧する声があったことも理解できる。でもそんなことは、二人にとってどうでもよかっただろう。恋愛の渦中にいるからどうでもよかったのではなくて、この結婚は覚悟と同義だったからだろうと思うのだ。恋愛の渦中にいながら、そのふわふわした幸福感とは相容れない、何か、生き死にとかかわるような覚悟が、二人が作りはじめた世界の中心にはある。愛とも恋とも少々異なる、すさまじいもの。虎よりもっとおそろしいもの。

文春文庫
夫・車谷長吉
高橋順子

定価:814円(税込)発売日:2020年02月05日

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