そんなはずはないと自分では思っていても、私はどこかで、夫婦とはこうしたもの、家族とはこうしたものだという固定観念を持っていて、自分自身がそれと大きく食い違うと不安になることがある。それらはかたちの決まった容れもので、私たちはそのなかに入って、そのかたちのとおりおさまらなければいけないというような考えだ。
でも違うのだ、かたちの決まった容れものなんてなくて、人が人とともに、その人たちにしか作れないかたちを作る、それを便宜的に、夫婦と呼んだり家族と呼んだりするのだ。高橋順子さんの『夫・車谷長吉』を読むたびにそのことを思い知らされる。
一九八八年、詩人である著者のもとに、小説家から絵手紙が届く。「妖気といったらいいか、怨念といったらいいか、ただならぬ気配のたちこめる肉太の字」で文章が綴られている。これに著者は返信しないが、ここが、はじまりである。
なんのはじまりかといえば、のちに夫婦となる二人の縁のはじまりなのだけれど、私にはもっと、深くて重みのあるものがはじまったように感じられる。今目にしているこの世界とはべつの世界が、ここからはじまったような。
絵手紙は十一通届き、終わる。だんだん薄気味悪くも感じた詩人は返事を出さない。けれども世界ははじまってしまった。何もなかったことにはならない。
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