4月23日に発売になった、村上春樹さんが初めて自らのルーツを綴ったノンフィクション『猫を棄てる 父親について語るとき』。
「文藝春秋digital」で開催中の「#猫を棄てる感想文」のハッシュタグをつけていただいた投稿のなかから注目の感想文を、ご紹介しています。
第四回は、冒頭とラストに登場する二匹の猫のエピソードが印象的だったという「こやまなみ」さんの感想文です。
村上春樹さんの『猫を棄てる 父親について語るとき』に「木に登ったまま降りて来なかった猫」のエピソードがでてくる。
『ねじまき鳥クロニクル』や短編やエッセイにも書かれていた話で、木に揚々と登っていった猫が降りられなくなって、一晩中鳴いていたが朝には声が聞こえなくなっていたという話。
この話が父親の人生とともに語られると、その猫は父であり、村上さんであるように思われる。そして、私のようでもある。
木に登ることは、戦争をすること。戦争をするかのように働くこと。優秀さ立派さを求めて努力すること。誰かに認められたくて頑張ること。ついつい何かを始めること。
登ったはいいけど降りられなくて鳴いている。どうしようもなくて木にしがみついて震えている。そのまま木の上で死んでしまう。
だけど、登らないわけにはいかなかった。
もう一つのエピソード。
村上さんがお父さんと一緒に猫を捨てに行く。そして、家に帰ると捨てた猫が待っていたという話。
村上さんのお父さんは養子になる前提でお寺の小僧に出されたことがあるそうで(環境に馴染めずに帰ってきた)、父にはその時の親に捨てられたという心の傷があったのではないかと村上さんは感じている。
この話の猫も父なのか。村上さんなのか。私なのか。
戦争に行って帰ってきたこと。再び招集されて帰ってきたこと。父親のお寺を妻の懇願で継げなかったこと。息子が自分の期待にそわないこと。
周りに望まれた場所にとどまれなかったこと。
木に登ったままの猫と帰って来た猫。
村上さんは、私たちは偶然が生んだ一つの事実を唯一無二の事実として生きているのではないかと言う。
そして、その事を一滴の雨粒に例える。雨粒には雨粒の歴史があり、受け継いでいくという責務がある。それを忘れてはならないと。集合的な何かに置き換えられて消えていくからこそ、一滴の雨粒として受け継いでいくもののことを忘れてはならないと。
最後に、松の木に登って降りて来なかった猫のことを思い、こう結ばれる。
「そして死について考え、遥か下の、目の眩むような地上に向かって垂直に降りていくことのむずかしさについて思いを巡らす」
木の枝から飛び降りることができるだろうか。
雲から一滴の雨粒となって、地上へ降り注ぐことができるだろうか。
家族や歴史や生や死やイメージが広がり深まる文章でした。
感じたこと思ったことを書こうとするけど、全然まとまらなかったです。
これまで読んだ村上さんの小説のことも色々考えちゃうし、自分の父や家族についても考えちゃうし。
短いけど、でっかいスペースを占めてしまう。そんな文章です。
まとめようとせずに、ぼんやりと繰り返し読もうと思います。
こやまなみ https://note.com/koyamanami
「#猫を棄てる感想文」コンテストについては、「文藝春秋digital」の募集ページをご覧ください。
また、感想文は「村上春樹『猫を棄てる』みんなの感想文」で、まとめて読むことができます。