小説家・村上春樹氏が、自身の父親、そしてルーツについて綴った『猫を棄てる 父親について語るとき』が上梓された。佐藤優氏が『文學界』に寄稿した書評を特別公開する。元外務省主任分析官はこの話題の書を、どのように分析したのか。(『文學界』2020年5月号より)
この作品の主題について、村上春樹氏は、〈僕がこの文章で書きたかったことのひとつは、戦争というものが一人の人間――ごく当たり前の名もなき市民だ――の生き方や精神をどれほど大きく深く変えてしまえるかということだ。〉と述べる。ただし、それをメッセージではなく、物語として発信したかった。小説家としての職業的良心がそのようなアプローチをとらせたのだと思う。
ここで村上春樹氏は、キリスト教神学で言う予型論的解釈(typological interpretation)の方法をとる。予型論的解釈とは、新約聖書に書かれているイエスの物語に対応する旧約聖書の物語があるという考え方だ。時系列的には旧約、新約の順であるが、予型論的解釈においては新約から旧約へと逆時系列をとる。
ある夏の日、午後の出来事の回想
村上春樹氏が小学校低学年の頃である。父の村上千秋氏とのある夏の日、午後の出来事の回想だ。〈我々が夙川(兵庫県西宮市)の家に住んでいる頃、海辺に一匹の猫を棄てに行ったことがある。〉父と子は、自転車で雌猫を2キロメートルくらい離れた海岸に棄てに行く。棄てた後、2人は自転車でまっすぐ帰宅したが、棄てたはずの猫が家で出迎える。
〈そのときの父の呆然とした顔をまだよく覚えている。でもその呆然とした顔は、やがて感心した表情に変わり、そして最後にはいくらかほっとしたような顔になった。〉棄てた猫が戻ってきて、父はほっとしたのである。
これはかつて父と祖父・村上弁識(べんしき)との間で起きた出来事の構造的反復だ。〈祖父の弁識がそうであったように、子供が多い場合、長子以外の子供たちを口減らしに養子に出すか、あるいはどこかのお寺に見習いの小僧として預けるのは、当時それほど珍しいことではなかった。しかし奈良のどこかのお寺にやられてから、しばらくして父は京都に戻されてきた。(中略)実家に戻されてきた父は、それからあとはどこにやられることもなく、安養寺で両親の子供として普通に育てられた。しかしその体験は父の少年時代の心の傷として、ある程度深く残っていたように僕には感じられる。どこがどうという具体的な根拠はないのだが、そういう雰囲気のようなものが父にはあった。/浜に棄ててきたはずの猫が僕らより先に帰宅していたのを目にして、父の呆然とした顔がやがて感心した顔になり、そしてほっとしたような顔になったときの様子を、ふと思いだしてしまう。〉
千秋が実家に戻ったとき、弁識はほっとしたはずである。
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