4月23日に発売になった、村上春樹さんが初めて自らのルーツを綴ったノンフィクション『猫を棄てる 父親について語るとき』。
「文藝春秋digital」で開催中の「#猫を棄てる感想文」のハッシュタグをつけていただいた投稿のなかから注目の感想文を、ご紹介しています。
第六回は、戦争について考えること、向き合うことについて綴った「モ」さんの感想文です。
高校の修学旅行では広島に行った。広島平和記念資料館で見た、原子爆弾投下後の凄惨な様子を伝える展示にショックを受けた。周りの生徒のほとんどは、いつもと変わらない様子に見えた。僕もたぶん周りからはそう見えていたはずだ。
でもなんとなく、「僕を含めてここにいるみんなはいま、心に傷を負っている」と感じた。生傷が癒えても、手で触ればザラザラと傷跡がわかる傷だ。これがトラウマっていうものなのだろうか。
資料館の展示物について、「こどもの頃に見てトラウマになった。恐怖心を植えつけることが教育だとは思えない」という意見をネット上で多くみかけた。
これは難しい問題だと思った。つまり、資料館のあの展示を見て心の傷を負うのは正常だと思うし、傷を負うことで理解できる領域というものがある気がするからだ。
たとえば、国内戦死者の人数や経済的な損失の額の数字を見たところで、心の底から締めつけられるような戦争の痛ましさを感じることなどできないのではないかと思う。
「戦争はよくない」と考える理由はいくらでもあげられるし、その言い尽くせなさは、海を前にしたときの無力感に似ている。広すぎて捉えきれない。
ただひとつ言えることは、戦争のことを考えると、「嫌な気持ちになる」ということだ。当時の映像や写真、課外授業で聴いた戦争経験者のお話、小説の中で描かれる戦場、それらひとつひとつの断片が頭の奥から引きずり出されて、それに呼応するように心の傷が痛み出す。
海が普遍的なメッセージを伝えているとしたら、僕の心を直接傷つける断片は、物語を抱えた「雨水」だ。「雨水」はこの世に存在する物語そのもので、僕自身もまた固有の物語を持った「雨水」だといえる。
村上春樹さんの『猫を棄てる』は、春樹さんの物語とお父さんの物語で構成されている。そして、お父さんから春樹さんへの「歴史の受け継ぎ」が行われている。僕がその物語を読むということは、疑似的に二人の雨水と合流して、僕も何かを受け継ぐということなのかもしれない。
そしてそれにはやはり痛みが伴うし、心は傷を負うのだ。
生きるということは、今まで見たり聞いたりしたものを受け継ぐことでしか無いのだと思う。海に向かって落ちる一滴の雨水さえ、数えきれない一滴から何かを少しずつ受け継いでいる一滴なのだ。
「自分自身が透明になっていくような」感覚。
何かを受け継ぎ、傷を負ったら、以前のようには戻れない。傷跡を手でなぞりながら生きなくてはならない。それは辛いことのように思えるし、一方で、温かいことでもあると思う。その傷には、どこかで誰かが生きた「物語」の温もりを感じる。
万が一『猫を棄てる』の書名や村上春樹さんの名前が僕の頭からすっぽり抜け落ちてしまっても、この本を読んだあとの「温もり」みたいなものはきっと残るだろうし、それはあるときには古傷として痛みだす。
モ https://note.com/shotaroohori
「#猫を棄てる感想文」コンテストについては、「文藝春秋digital」の募集ページをご覧ください。
また、感想文は「村上春樹『猫を棄てる』みんなの感想文」で、まとめて読むことができます。