4月23日に発売になった、村上春樹さんが初めて自らのルーツを綴ったノンフィクション『猫を棄てる 父親について語るとき』。
「文藝春秋digital」で開催中の「#猫を棄てる感想文」のハッシュタグをつけていただいた投稿のなかから注目の感想文を、ご紹介しています。
第五回は、『猫を棄てる』について「書くことで、整理されていく。語られることで、変化していく。――佐渡島庸平と岸田奈美、村上春樹『猫を棄てる』を読む。」で、作家エージェント「コルク」代表の編集者・佐渡島庸平さんと対談された、作家・岸田奈美さんの感想文です。
ムラカミハルキとキシダナミ
28年の人生で、こんなにもたくさんの作品名を言えるのに、一度も読んだことのない作家は村上春樹さんだけだった。
14年前に突然死んだ父の本棚には『ノルウェイの森』が並んでいた。
ときどき場所が変わっていたから、たぶん、父は何度も読み返したのだと思う。
父の熱量は、すさまじかった。
「春樹、春樹」と、知人でもない名前が、時折思い出したように父の口から飛び出してくるもんだから、強烈に覚えている。食卓への登場頻度からすると、もはや知人と言っても差し支えない。
父は優秀なベンチャー起業家だった。
そんな父に褒められることが、私はどんな勲章や賞状より嬉しかった。
だから、春樹さんの本だけは、手が出せなかった。
ヘタに感想を伝えたら「お前は春樹をわかっとらんわ。ええか、春樹っていうのはな」と、やかましく言いかねないからだ。しかも、たぶん、ちょっと嬉しそうに。
父が亡くなったあとも。
いつかはきっと、と頭の片隅で思い続けたまま、ついに読めなかった。
ハルキストと呼ばれる人たちに、父を重ねて、びびっていたのだと思う。
抱いた感想を、いやでも他の人と比べ、器の狭さだとか、感受性の低さだとか、自分を推し量るものさしを突きつけられるのが怖かった。私は小心者のくせに、プライドが高いのだ。
『猫を棄てる』を読んだのは、奇跡中の奇跡だ。
私は今年の3月から、エッセイを書く作家になった。
とても楽しいけど、あやふやな記憶を確かな言葉に変える仕事は、たまに漠然とした不安に襲われる。
春樹さんのエッセイを読めば、この不安を取り払えるかもしれない。
直感で、そう思った。
結果から言うと。
読み終わったあと、堤防が決壊するみたいに泣いた。
本当に視界が霞むくらい泣いて、動揺した私はお茶を派手にこぼし、本を浸けてしまった。
そんなわけで私の手元には、涙とお茶が染み込んだ『猫を棄てる』と、真新しい『猫を棄てる』が二冊ある。
これから先の人生へ、大切に抱えてつれていく。
二冊とも。
記憶をなぞって記録をたよる
春樹さんには今まで、お父さんとの関係のなかで、理由を見つけられず謎のままにしていたことがあるらしい。
『猫を棄てる』では、春樹さんがお父さんを二つの手段で振り返る。
春樹さんの幼少期の記憶をなぞって、振り返る。
お父さんの徴兵中の記録をたよって、振り返る。
記憶と記録が絡み合い、春樹さんが「謎の真実はこうではないか」と推測する答えあわせが、映像みたいに浮かび上がってくる。
謎のひとつが、お父さんが毎朝、仏壇に向かって目を閉じて熱心にお経を唱えていたことについて。
〈子供の頃、一度彼に尋ねたことがあった。誰のためにお経を唱えているのかと。彼は言った。前の戦争で死んでいった人たちのためだと。そこで亡くなった仲間の兵隊や、当時は敵であった中国の人たちのためだと。父はそれ以上の説明をしなかったし、僕はそれ以上の質問をしなかった。〉
『猫を棄てる 父親について語るとき(以下『猫を棄てる』)』 p.16 (引用内太字は岸田、以下同様)