――満月珈琲店には、決まった場所はございません。
時に馴染みの商店街の中、終着点の駅、静かな河原と場所を変えて、気まぐれに現われます。
そして、当店は、お客様にメニューをうかがうことはございません。
私どもが、あなた様のためにとっておきのスイーツやフード、ドリンクを提供いたします。
もしかしたら、夢を見ているのかもしれない。
目の前に現われた大きな三毛猫は、そう言って、にこりと目を細めた。
プロローグ
四月のはじめ。
全開にしていた窓から春の薫りを含んだ爽やかな風と共に、美しいピアノの音が流れてきていた。
エルガーの『愛のあいさつ』。
まるでその音色に誘われるように、ベランダの手すりに猫が現われた。
うちのマンションは、一応ペット可だ。
きっと、どこかの部屋で飼っている猫なのだろう。
その子は、白、茶色、黒の三色が綺麗に配置された、よく見かける三毛猫だ。
キッチンに立っていた私は、ネギを刻む手を止めて、なんとなく猫の様子を眺めた。
猫は、ベランダの手すりをしゃなりしゃなり、と歩いていく。
不安定な足場を危なげなく歩くその姿はとても優雅で、思わず見惚れてしまう。
雲一つない澄んだ空と桜の木をバックにしているせいか、まるで一枚の絵のようだ。
一方、こちらは料理をしているように見せかけて、インスタントラーメンに入れるネギを刻んでいるだけ。
他にもニンジン、もやし、ほうれん草をごま油で炒めようとしているが、お洒落さの欠片もない、絵にもならないランチだ。
猫は、まるでそのピアノの音色に聞き惚れているかのように手すりの途中でピタリと足を止めて、心地よさそうに目を細めている。長い尻尾を振り子のように振っていた。
わが家は、ワンルーム。小さな一室だ。
キッチンからベランダまでの距離は近い。
猫はこちらの視線に気が付いたのか振り返って、みゃあ、と声を上げた。
愛のあいさつならぬ――猫のあいさつだ。
私は頬が緩むのを感じながら、手を洗ってベランダへと向かう。
ガラリ、と網戸を開けたが、すでに猫の姿はなくなっていた。
キョロキョロと辺りを見回しても、どこにもいない。
ここは三階だ。もしかして足を滑らせて、下に落ちてしまったのではないか、と心配になるも、そんな様子もない。
私は、ホッとしながらも、『猫が落ちたりはしないだろう』と小さく笑って、手すりに腕を載せる。
『愛のあいさつ』はもう終わっていた。
今はショパンのエチュードOP.10-3-通称『別れの曲』が流れている。
別れか、と深く息を吐き出して、俯いた。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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