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『満月珈琲店の星詠み』望月麻衣――立ち読み

『満月珈琲店の星詠み』望月麻衣――立ち読み

望月 麻衣

電子版32号

出典 : #別冊文藝春秋
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

「別冊文藝春秋 電子版32号」(文藝春秋 編)

 恋人との別れは、誰しもこたえるものだろう。

 それが四十歳の、結婚願望の強い女だったら、余計にだ。

 彼とは付き合いも長く、一緒にいるのが当たり前になりすぎた。

 だが、『当たり前』なんて、あり得ない。

 もしかしたら、猫も足を滑らせてしまうことだってあるのだ。

 そんなことを考えてしまい、再び不安になって下に目を向けたが、猫の姿はどこにもない。やはり、猫は問題なかったようだ。

 足を滑らせたのは、私だけ。

「どこで間違っちゃったんだろうな……」

 下の方で、わいわいと子どもたちの声がして、私は眼下に顔を向けた。春休みなのだろう、小学校低学年くらいの子どもたちが歩いている。

 懐かしさを感じて、頬が緩んだ。

 あの頃、世話をした生徒たちは、元気なのだろうか?

 やはり、教師を辞めるべきではなかったんだろうか?

 いや、今この状態で教師をしていたら、遠慮のない子どもたちに『先生、結婚しないの?』などと無遠慮な質問をぶつけられ続けるだろう。

 今の状態でそんなことを聞かれてしまっては、教壇で泣いてしまうかもしれない。

 これで良かったんだ。

 自分に言い聞かせるように、うん、と頷く。

 ぴっちりと網戸を閉めて、私は部屋に戻る。

 いつの間にか、ピアノの音は止んでいた。

第一章 水瓶座のトライフル

1

「ご馳走様でした」

 空になったラーメン丼を前に、私芹川瑞希は、両手を合わせた。

 インスタントラーメンに、たっぷりの野菜と刻んだネギを入れる。決して豪華とは言えないランチだが、食べ終えた後はなかなかに充実感があるものだ。

「さて、仕事しなきゃ」

 ラーメン丼をキッチンに運んで、サッと洗い、水切りカゴに入れる。

 そのまま布巾を手に、丁寧にダイニングテーブルの上を拭いていく。

 このテーブルは大人一人がようやく食事ができる程度の小さなものだ。狭いワンルームなので、私はここで食事をし、仕事もする。

 拭き終えた後、一人分用のドリップコーヒーをマグカップに淹れて、ノートパソコンと資料をテーブルの上に置き、私は椅子に腰を掛けた。

 コーヒーを一口飲んで、資料をパラパラとめくる。

「ええと、このキャラの設定は……」

 この資料には、華やかで見目麗しい男子のイラストがずらりと並んでいる。

 これは、キャラクターの設定書だ。

 美しい男子たちは、『裕福な学園に通う御曹司』という設定だった。

 髪の色は、赤青黄色と色とりどりで、決して御曹司には見えない。しかしこれはゲームの中の話。誰もそんな細かいことは気にしていない。

 そう、私の職業は、シナリオ・ライターだ。

別冊文藝春秋からうまれた本

電子書籍
別冊文藝春秋 電子版32号(2020年7月号)
文藝春秋・編

発売日:2020年06月19日

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