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キャッシュとディッシュ

キャッシュとディッシュ

文:岡崎 祥久

文學界8月号

出典 : #文學界

「文學界 8月号」(文藝春秋 編)

 他人がみれば、ただのレトロなグラスでしょうけど、実の弟にそういわれると、このコップをつかっていたころの実家での光景が記憶からこぼれてきそうになるというか、コップはもともと色ちがいの物が五個セットで、平箱におさめられていて、どこからかのいただき物でしたけど、はじめて箱からだしたときのことを、俺は今でもおぼえています。だしたの俺でしたからね。つかっているうちに三つはこわれて、のこった二つがいつのまにか戸棚の奥にしまい込まれていたのを、実家に行ったときにたまたま俺がみつけて、こんなコップなんかみんなもうわすれてるからとひとりぎめして勝手にもってきました。実家は今はもうなくて、両親もこの世にいません。順番は、母親がさきで父親があとでした。失踪した叔父さんは、母親の弟です。

「ここもさ、ちっともかわらないよね」

 キッチンと居間をかねたフローリング風の室内をみまわして弟のやつはそういいましたが、ほかには、せまい寝室と浴室とトイレがあるだけの簡素な住居で、といっても俺はここに十三年住んでいるので物はたくさんあって、ありすぎるかもしれないぐらいで、ちょいちょい圧迫感があったりもしますが、引越す予定はないし引越せる余裕もなくて、今ここにいることだけはできている、というかんじです。

「兄さん、仕事は? 今はなにをしてるの?」

「前はスクールバスの運転手をしてたよ」

「へえ、運転手。しかもスクールバス」

「ちょっとかわった学校でさ、授業は昼までしかないんだ。給食を食べたらもう下校の時間で、生徒も十二人しかいない。ちいさな学校だった。授業は月曜から土曜まであって、夏休みは二週間しかない。だけど俺は子どもとなにを話せばいいのかなんて、すこしもわからなくて、話しかけられても“ん”とか“あ”とかしかいわなかった。それでもクビにはならなかったよ」

文學界 8月号

2020年8月号 / 7月7日発売
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