特集

キャッシュとディッシュ

文: 岡崎 祥久

文學界8月号

「文學界 8月号」(文藝春秋 編)

 俺はもうすぐ五十歳です。貯金はまだなくて、時給一〇〇〇円で週に五日、ちいさな製麺工場で働いてます。正確にいうと、俺の時給は一〇三〇円で、働きはじめてから半年ごとに一〇円ずつ昇給していて、最賃割れはなかったとおもっています。昇給のときはかならず面談があって、工場の片隅のうらぶれた別室で上司と一対一でむきあいますけど、時給が一〇円あがるだけとわかっていても、社長の逆鱗じゃなくて社是にふれることになるらしいので、俺はあたりまえですけど上司だって、この“儀式”をまぬがれることはできません。

「たった一〇円ぽっちとおもうかもしれませんが」

「いえいえ、まさか。そんなことないです」

 毎回のように俺は、おなじ謙虚ぶった反応をしてしまうけれど、俺より七つ年下でしっかり者の上司は、そういう余計な応答はいらないということがちゃんとわかっていて、俺のいったことなんか、こともなげに無視できる経験値と世間知があって大したものです。

「一日八時間で八〇円、週五日で四〇〇円、月四週で一六〇〇円、半年もすれば一〇〇〇〇円。そうかんがえたら、それなりの金額だとおもいませんか?」

「え? べつに」

 いやいや、いくら俺でもさすがにそうはいいませんけど、でも、その場で財布のなかに一〇〇〇〇円札がふえるなら話はべつでも、半年かけて一〇〇〇〇円じゃ、ふえた実感なんてありっこないとはいえ、口ごたえしないほうがいいのはわかっていて、俺がおとなしくしていれば、上司はじきに最後のひと言にたどりつけます。

「もういいですよ、以上です」

 その言葉で俺は業務にもどされます。

文學界 8月号

2020年8月号 / 7月7日発売
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