香港(ホンコン)、震撼す――。
今年(二〇二〇年)六月三十日、中国の全国人民代表大会常務委員会は、香港の統制を強化する「香港国家安全維持法」案を全会一致で可決、成立させた。日本でも大きく報道されたが、同法は「国家の分裂」「中央政府転覆」「テロ行為」「外国勢力との結託」の四つを犯罪行為と規定し、最高刑は終身刑と定める。これを受けて香港政府が、日付のまだ変わらない深夜十一時に同法を公布、施行したことで、国際金融センターでもある香港は中国の治安維持体制に事実上組み込まれた格好だ。
それにしても、明くる七月一日を香港国安法の実質的な施行初日としたことは、いわゆる戦狼外交の一環なのだろう。香港がイギリスから中国に返還されて二十三年の節目にあたるその日、「香港に自由を」と叫ぶ民主派市民の大規模なデモ行進に、香港警察は催涙弾なども使用して強硬に対応。三百七十人以上の市民が拘束され、うち十人が国安法違反に問われている。香港の民意は伝統的に親中派が四割で民主派が六割と言われるが、一九九七年七月一日の祖国復帰以降、一国二制度下にあった香港が最大の歴史的転換点を迎えていることはまちがいない。
――そんな香港の過去現在を知るのに、香港人作家である陳浩基(ちんこうき)の(いちさんろくなな)『13・67』ほど相応しい推理小説(ミステリー)はほかにない。戦後香港の現代史と一人の警官人生を重ねて〈時の政権(警察権力を含む)〉と〈市民の正義〉の関係を問い直そうとする壮大な構想のもと、すこぶる技巧的でいて人間ドラマは濃密な、掛け値なしの傑作だ。年末恒例の各種ミステリーランキングでも抜きん出た支持を集め(「週刊文春ミステリーベスト10」海外部門一位、「このミステリーがすごい!」海外部門二位、「本格ミステリ・ベスト10」海外部門一位)、その反響から大増刷された折には「『本格』の典型からはさまざまに逸脱していきながらも、すべてが実に本格ミステリ的な、優れた創意と技巧によってこそ成り立っている」(綾辻行人)、「時代が織りなす警察の信と疑を車窓に映しつつ、ロジックのハンドルさばきも鮮やかに、香港現代史の発火点をタイムトラベルしてみせる無双の緊急捜査車両」(横山秀夫)と賛辞が躍る新しい帯が巻かれたものだ。これまでに日本で最も多くの読者を獲得した華文(中国語)ミステリー作品であるのはまちがいなく、まだまだ馴染みの薄かった華文ミステリーへの関心を一気に高めた記念碑的作品であるとの評価は動かないだろう。
さて、ここで陳浩基の日本紹介作品(単独著書として刊行されたもの及び刊行予定のもの)を一覧にしておこう。なお、(1)から(4)の数字は、あくまで日本語訳された順番を便宜的に示している。
(1)原題『遺忘・刑警』二〇一一年九月、皇冠文化出版[台湾]→邦題『世界を売った男』二〇一二年六月、文藝春秋→一八年十一月、文春文庫
(2)原題『13・67』二〇一四年六月、皇冠文化出版[台湾]→邦題『13・67』二〇一七年九月、文藝春秋→二〇年九月、文春文庫(上下巻) ※本書
(3)原題『第歐根尼變奏曲』二〇一九年一月、格子盒作室[香港]/皇冠文化出版[台湾]→邦題『ディオゲネス変奏曲』二〇一九年四月、早川書房
(4)原題『網内人』二〇一七年七月、皇冠文化出版[台湾]→邦題『網内人』二〇二〇年九月刊行予定、文藝春秋
(1)『世界を売った男』は、台湾の大手出版社主催で始まった「島田荘司推理小説賞」の第二回(二〇一一年)受賞作である。一夜明けるとなぜか六年先の未来に来ていた警察官の混乱と職分(プライド)を描いた同作は、作品の冒頭に詩美性のある謎を創出すべしと提言する島田荘司のいわゆる奇想理論に則り、本家島田以外での数少ない成功例と認めていい。やや才走って捻りすぎた感はあるけれど、その筆力は本物にちがいないと確信させる好篇だった。
続いて翻訳紹介された(2)『13・67』はひとまず措いて、(3)と(4)に触れておこう。(3)『ディオゲネス変奏曲』は、作者自らが十七作品を精選した初の短篇集で、とにかく一冊をとおして窺えるのは“意外な結末”を演出することへの強いこだわりだ。殺人も躊躇(ためら)わないネット・ストーカーの意外な正体が明らかになる逸品「藍(あお)を見つめる藍(あお)」をはじめ、収録作は本格ミステリーを中心としながら極めてバラエティに富んで読者を飽きさせない。また今年九月刊行予定の(4)『網内人』は、ネットを使った《いじめ》や経済格差の進行など現代香港の切実(シリアス)な社会問題を背景に大胆な仕掛けが施されていると音に聞く。期待は高まる一方だ。
――さあ、肝腎の本書『13・67』のことを。物語の主人公は、香港警察の生ける伝説、關振鐸(クワンザンド―)警視。その卓抜な捜査能力から「名探偵」とも「怪物」とも呼ばれるクワン警視がこの約半世紀――一九六七年から二〇一三年までのあいだに関わった六つの難事件の顛末を描いている。こうした“名探偵の事件簿”は、古いものから新しいものへ、年代順に並べられるのが一般的。だが『13・67』は、そうではない。二〇一三年の現在から一九六七年の過去へ、時を溯ってゆく形式が採られているのが特長だ。それに各話の背景は、香港社会にとって大きな変化が起きた/起きようとしている時代が選ばれている。
巻頭を飾る「黒と白のあいだの真実」(二〇一三年:「政治的に中立」という警察の原則は崩れ出しており、翌一四年九月には雨傘運動が澎湃)に登場する老クワンは、末期の肝臓がんを患い、病院のベッドで眠り続けている。瀕死の名探偵が、信頼する部下の駱小明(ローシウミン)の問いに脳波で答える「YES」「NO」だけで実業家殺しの謎を解く様子はケレン味たっぷりだ。続いて、マフィアの分裂抗争のはざまで犠牲となった女性アイドル歌手の“真の顔”が明らかになる「任侠のジレンマ」(二〇〇三年:治安条例に反対する民主派五十万人デモ発生)。奸智に長けた脱走囚人と名探偵クワンの火花散る頭脳戦に胸が躍る「クワンのいちばん長い日」(一九九七年:香港返還)。犯罪グループとの真昼の銃撃戦にまさかの策謀が仕組まれていた「テミスの天秤」(一九八九年:中国で天安門事件が起こり、香港人のあいだで移民ブームが高まる)。イギリス人捜査官の息子が誘拐された事件の陰で、クワンがなぜか怪盗ルパンのごとく暗躍する「借りた場所に」(一九七七年:香港警察の汚職が大きな社会問題に)。そして最終話「借りた時間に」(一九六七年:中国で文化大革命が始まった煽りで反英暴動が発生)では、左派勢力が計画する爆弾テロを阻止すべく、雑貨店で働く「私」と若き警察官の急造コンビが香港じゅうを駆け回る――。
本書『13・67』にファイルされた六つの中篇は、いずれも推理の興趣にあふれ、その水準の高さには目を瞠(みは)るばかり。しかも、クワン警視の警官人生を“逆再生”する構成の妙が際立つのは、収録作のうちただ一篇だけ一人称で「私」が語る最終話に仕込まれたトリックが発動する瞬間だ。そう、物語の幕切れにおいてその瞬間が訪れたとき、ほとんどすべての読者が重要な人物関係を誤認していたことに衝撃を受けたはずである。
小説本篇より先にこの「解説」に目をとおす方もいるだろうから曖昧な物言いをするが、読者の《意識》は最終話を読み了えて直ぐ皮切りの作で描かれた実業家殺しの“秘められた因縁”に接続される。それにより、反英闘争の嵐が吹き荒れた一九六〇年代と、中国政府の圧力が強まるも「高度の自治」を維持せんと市民運動が沸き立つ二〇一〇年代が〈反政府の時代〉として重ね合わされる。本格ミステリー特有のトリックが、読者をただ引っ掛けて騙すためでなく、香港という特異な植民都市の歴史を描こうとする社会派テーマをはっきり浮かび上がらせる引き金(トリガー)になっているのだ。
偉大なるクワンザンドーは、二〇一三年九月某日、その命をみごとなまでに使いきって、あの世に旅立った。それから、早七年。名探偵の称号を継いだはずのローシウミンが、果たして今も香港警察に残っていると想像できるだろうか? 「黒と白のあいだの真実」には、こんな一節があった。「今、彼(引用者注:老クワン)の命が尽きようとしている。そして長年、彼が身をもって築き、支えてきた香港警察のイメージもまた、風前の灯であった」と。――ああ、ついに『13・67』という、かつて小説だったはずのものは、クワンや愛弟子ローが体現しようとした〈公正無私なる香港警察〉の長い長い墓碑銘(エビタフ)になってしまったのではないだろうか。
二〇二〇年七月十四日
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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