脳の健康寿命をできるだけ延ばす方法を探るのがこの本の目的です
脳の健康のために、何かやっていますか?
肝臓の数値を気にしてお酒を控えたり、運動不足の解消のためにジョギングをしている人は多いでしょう。一方、脳は身体の中で最も大切な臓器で、毎日酷使しているのに、その健康状態を意識している人は少ないはずです。
脳の働きには、*γ─GTPや*血糖値のようなわかりやすい目安がありません。だから自分の脳の状態がわからないし、何をすればいいのかもわからない。それが普通です。
しかし、できることはあります。「気付いたときは認知症」とならないためにも、脳の健康に役立つ方法を知って、いますぐ取り掛かるべきです。
*γ─GTP:ガンマ─グルタミルトランスペプチダーゼ。肝臓だけでなく腎臓、膵臓にも含まれる解毒に関わる酵素。肝臓や胆管の細胞が傷ついたり死滅したときに血液中で上昇する。
*血糖値:血液中のブドウ糖の濃度。空腹時の健康成人では、血液100ミリリットル中に70~110ミリグラムが適正。
日本人の平均寿命が延びた理由
脳が健康でなくなると、どんなことが起こるのでしょうか。
脳の話の前に、身体の寿命を見てみましょう。
厚生労働省によると、2019年の日本人の平均寿命は、男性が81.41歳、女性が87.45歳。どちらも過去最高を更新しました。寿命が延び続けたのは、医療の進歩と健康意識の向上が理由です。
最も大きいのは、感染症の克服です。
過去に*天然痘やペストのパンデミックが起こったとき、世界中で何百万もの人々が亡くなりました。こうした感染症を、人類は次々に克服してきました。2020年初頭から猛威を振るう新型コロナウイルスも、やがてワクチンと治療薬が開発され、抑え込むことができるに違いありません。
*天然痘やペストのパンデミック:天然痘(痘瘡)は、かつてインド、パキスタン、東南アジア、アフリカ、南米などで風土病として存在し、欧米諸国や日本でも毎年のように小流行があった。1977年、アフリカのソマリアの病人を最後にして、種痘の励行によって地球上から消滅した。ペストは、元来はノミを介するネズミの伝染病。致死率は60~90%と極めて高い。中世ヨーロッパ、明治・大正時代の日本でも数回流行。サルファ剤やストレプトマイシンで治療する。近年、外国でも大きな流行はない。
第二に、血管が関係する病気の治療が進んだことです。
血管は全身を巡っていますから、あらゆる臓器の病気に関係します。中でも、糖尿病、脂質異常症(高脂血症)、高血圧、動脈硬化などの生活習慣病に直結しています。近年、これらの病気の軽症段階での治療が進んだこと、生活習慣病に対する意識が改善されて予防が進んだことも、寿命が延びた要因です。
三番目は、がんの治療が進んだことです。
日本人の2人に1人が、がんにかかる時代です。しかし早期発見が可能になり、手術や抗がん剤や放射線による治療も進歩したため、治癒の目安となる5年生存率は大きく伸びました。昔と違い、死の宣告に等しい病気ではなくなったのです。
このように各種の病気が克服され、公衆衛生学の知識が普及したおかげで、平均寿命は延びてきました。人生で日常生活に制限なく暮らせる期間を「健康寿命」と呼びますが、身体の健康については機能を長く維持できるようになってきたのです。
脳の仕組みや働きはあまりにも複雑
では、脳の寿命はどうか?
身体に比べると、延びているとは言えません。むしろ、身体の寿命が延びたのに、脳の寿命はそれに追いついていないと言えるでしょう。そのアンバランスが大きな不都合になっています。
脳出血や脳梗塞といった血管に由来する病気は、身体と同じように早期発見や早期治療が可能になってきました。
しかし、脳の健康寿命の限界は、認知症の増加という形で現れています。2012年における国内の認知症患者数は約460万人で、高齢者(65歳以上)人口の15%でした。厚労省は、2025年には高齢者の20%に当たる730万人が認知症になると推計しています。
不治とされた数々の難病を克服し、身体の寿命を延ばしてきた医学ですが、脳の健康寿命を延ばすには至っていません。その最大の原因は、脳の仕組みや働きがまだ十分にはわかっていない点にあります。
科学において何かを解明するというのは、そのための方法論を解明することと同じです。宇宙の果てがどうなっているか確かめられないのは、現在の科学技術の方法論では実際に見に行くことができないからです。
人間の脳は手に取れる場所にあるのに解明する方法論にたどり着けないのは、その仕組みや働きがあまりにも複雑だからです。
脳の寿命も延ばせる!
肌に小さな傷ができたとき、放っておいても塞がって自然に治っていきます。皮膚の細胞が再生するおかげです。これに対して、脳の細胞は減っていくだけで、一度死んでしまえば再生できないと言われてきました。老化で萎縮するにつれ、脳の働きは衰えていく一方だと考えられていたのです。
ところがごく最近、こうした定説を覆す研究結果が発表されるようになりました。たとえば成人の脳にも、自己複製力をもつ*神経幹細胞が存在することがわかってきました。
*神経幹細胞:*神経細胞(ニューロン)と*グリア細胞を産生する元となる幹細胞。
*神経細胞(ニューロン):脳内の細胞は、神経細胞と、その働きを支えるグリア細胞の2種に分類される。神経細胞は情報の伝達に関わり、脳全体で1千数百億個、寿命は150年あるとも言われる。
*グリア細胞(神経膠細胞):中枢神経の内部でニューロンの間を埋めるような細胞要素、つまり星状膠細胞、稀突起膠細胞、小膠細胞、上衣細胞を総称する語。
イタリアのパヴィア大学とトリノ大学の研究グループも、興味深い論文を発表しています。彼らは、マウスから採取した脳の神経細胞(ニューロン)を、ラットに移植しました。どちらもネズミですが、ラットの寿命はマウスの2倍です。
すると、移植された神経細胞は本来のマウスの寿命を超え、ラットの寿命が尽きるまで生きて活動していたのです。この結果は、人間においても身体の寿命が延びている現状の中で、新たに適切な対応を取れば脳細胞の寿命が延びる可能性を示唆しています。
脳の研究には、解明できていない部分がたくさんあります。これは逆に言えば、脳の寿命を延ばせる余地があることを意味します。脳の寿命も身体と同じように、健康な働きを維持したまま延ばせるし、日常生活の心がけや知的な活動によって活性化することが可能なのです。
できれば脳の働きが衰えたり認知症になったりせず、身体と脳の働きにギャップを生じさせずに人生を送るほうが幸せです。そうやって脳の健康寿命をできるだけ延ばす方法を探ることが、この本の目的です。
人間の脳は奇跡の臓器
私は、2019年3月に定年退職するまで順天堂大学医学部附属順天堂医院に勤務し、メンタルクリニック科長や認知症疾患医療センター長を務めました。日本で唯一の、*若年性アルツハイマー病専門外来も開設しました。
*若年性アルツハイマー病:65歳未満でアルツハイマー型認知症、アルツハイマー病による軽度認知障害などと診断された場合を「若年性アルツハイマー病」と言う。
そのあと、東京丸の内に開業した「アルツクリニック東京」の院長に就任し、世界最先端の健脳ドックを導入し、また認知症予防を目指した会員制の「丸の内倶楽部」も主宰しています。
私が医学の中でも精神医学を志したきっかけは、2つあります。ひとつは、父が精神科医だったこと。
もうひとつは、人の人たる所以である脳の病気を専門にしたいと考えたことです。心臓や肝臓の病気については、動物実験が可能です。いまは*パーキンソン病でも、動物で再現できるようになりました。
*パーキンソン病:中脳の黒質という部位にあるメラニン細胞の変性・萎縮と大脳基底核の病変によって起こる。ふるえ、筋肉のこわばりなどの症状が現れる。
しかし、脳に関わる病気、つまりアルツハイマー病やうつ病や*統合失調症は、満足のゆく動物モデルができていません。これらの病気は脳の大脳皮質に由来しますが、人間のように発達した大脳皮質を、人間以外の動物は持っていないからです。
*統合失調症:主として青年期に発症し、妄想や幻覚など特異な症状を示し、やがて人格の特有な変化を示す。原因が不明で治療が難しい。
人間に特有で、最もかけがえのない組織こそ、脳です。人間がこのように知的で素晴らしい存在になった理由は、脳が発達したから以外の何物でもありません。医学生時代、解剖の実習で初めて脳に接したとき、人間の尊厳を感じ、言葉で言い表せない敬虔な思いに捉われたことを、いまでもよく覚えています。
脳の働きが単純で、簡単に解明できるくらいなら、我々人間はこれほど複雑な生き物になっていません。宇宙の果てを考えると気が遠くなりますが、宇宙の真逆が脳だと私は考えています。人間の脳は、そのくらい奥が深い。まさに奇跡の臓器です。
(「【序章】 身体と脳の寿命はアンバランス」より)
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