ずいぶん前のことだが、東大の2年生が同じ学年の女子を包丁で何度も刺して、重傷を負わせる事件があった。恋愛感情のもつれによる逆恨みだったらしいが、幼稚かつ愚かな犯罪である。
「その学生はすぐ退学処分にすべきだ」と、聞いて思った。人間には、やっていい事といけない事の区別がある。東大生の多くは、入試に青春のほとんどを賭けてきたはずだから、『退学処分』は戦慄すべき事態だろう。だから、人を刺したら「自分の人生を失う」という、ショックに近い感情と共に、教訓は全学生の心に残る。人を刺したら犯罪、くらいは誰でも“知って”いる。だが、感情を込めた記憶があって初めて、“分かる”のだ。
ところが事件の直後、東京大学は当学生に対する処分を、何ら発表しなかった。推定無罪の原則かもしれぬ。しかしこの事件では、犯意は明らかであった。一罰百戒のせっかくの機会を、東大は逃したのだ。まことに残念である。
姫野カオルコ著『彼女は頭が悪いから』は、「東大生」に対するイメージと世の歪みを主題にした小説だ。まず、タイトルが人を惹きつける。「頭が悪い」とは、偏差値が東大より低い大学の学生を指す、意地悪な形容である。わいせつ事件の被害者となる主人公の美咲は、普通の女子大生だった。ただ加害者たちが東大生だったため、かえって世間から「勘違い女」などと非難される。では、勘違いとは、いったい何の事か?
本書は2016年に実際に起きた、東大生5人による強制わいせつ事件に着想を得ているが、完全なフィクションである。ただ、フィクションの意味を、全然理解できない人も多いらしい。本書刊行の数ヶ月後、東大駒場キャンパスで開催されたブックトークで、それを感じた。スピーカーとしては姫野さんの外に、文藝春秋の編集者と女性活動家、そして東大の教官数名が登壇していた。
今思い出しても、このイベントはまことに東大的だった。ひどく真面目なのに、全体としてひどくバカげている。シンポジウムではなぜか、小説にリアリティがない、という点に批判が集中した。理由には、三鷹寮や入試問題などへの、些末な事実誤認があげられた。姫野さんはシンポの冒頭で、「この小説はフィクションであり、東大を紹介するために書いたものではない」と、わざわざ説明している。だが、なぜ東大の人たちは、教員も学生も口をそろえて、あんなに怒っていたのか。
人が些細なことで妙に激しく怒るときは、何か見えない心理的機制が働いている。わたしは一応、東大大学院で何十回も教壇に立ってきたので、平均的な人よりは、東大生という人種を知っているつもりだが、この問題は、おそらく西村肇・東大名誉教授の次の発言に、ヒントがあると感じた:
「私は東大をやめてから、初めて東大の卒業生の性格がよく見えてきました。(中略)まず、劣等感が強いことです。これはちょっと意外かもしれませんが、本当です。(故郷で)○○天才などと呼ばれていた者が、東大に入ると、とてもかなわない奴がいることを知って、自信が根本的に崩れてしまうのです。しかしそれを認める余裕がなく、隠そうとします。ですから、東大卒業生は批判されることを嫌い、本当に批判されると壊れてしまいます。ガラスの器のようです。」
(西村肇「日本破産を生き残ろう」 日本評論社・刊、P.152)
東大生は劣等感が強い。ただ、それは無意識の下に隠されていて、自分でも気づかずにいる。周囲からの批判に弱いので、いつも逃げ道を確保する。リスキーな行いをするのは、仲間も同じような行動を取る時だけだ。だから集団わいせつ事件になったのだろう。
それなのに本書に登場する東大生たち、副主人公格の竹内つばさや、共犯者の4人は、高収入家庭で育ち、周囲に無条件の優越感を持つキャラに描かれている。それが世間のイメージだからだ。ただ現実の東大生たちは、そうしたイメージに対し、屈折した感情を持っている。彼らが小説に「リアリティがない」と怒った理由は、東大生の性格描写が実像とは違う、自分たちこそ世間の無理解の被害者だ、という点だったのだ。
とはいえ世間の人たちは、東大生とは自動的に社会の上座に座って、勝手に命令や教訓を下してくる存在だ、と信じている。「頭の悪い」庶民は、単に利用して捨てるだけの対象なのだ、と。それは、もし自分たちが同じ優位な地位についたら取るだろう行動の、一種の投影でもある。
わたし達の社会は、学歴だとか、性別だとか、出身階層だとか、さまざまな切り口で優劣がつけられ、序列化されている。そして人を、競争に駆り立て、優位な者、あるいは序列に適応した者だけが、安全に生き残る。そこに「対等」や「公正」はない。あるのは「分際」だけだ。
「頭の悪い女子大生の分際で、東大生と対等につきあい、まして被害を受けたら訴える、などとは勘違いもはなはだしい」・・これが序列社会に適応した人びとの、本音なのだ。わいせつ事件は普通の犯罪と違い、劣位者の女性が、優越者たる男性に親しくなりたい下心があると、世間は想像する。被害者である主人公の美咲を、摂食障害にまで追い詰めたのは、こうした世間の連中によるセカンド・レイプだった。これが詐欺や窃盗事件だったら、あるいは被害者が、例えばお茶の水女子大生だったら、あれほど「勘違い」なる非難を受けなかっただろう。
姫野カオルコという人は、日本でも珍しい、思想小説の作家である。小説は、「すじ」を追う直木賞系と、「きもち」を描写する芥川賞系にわかれると、以前どこかで書いていた。だが姫野作品は、筋や気持ちより、人が何を考え、何を信じるかを描く。そして本作品が描き出したのは、
「頭の良い人間は、頭の悪い人間に対して、どんなことをしても良い」
という恐ろしい思想を抱く人間が、この社会に一定数いる事実だ。あるいは、「勝ち組は負け組に、どんなことをしても正当化される」との思想だと、言いかえても良い。
ただ、モラリストで心優しい作者は、被害者の美咲をどん底に突き放したままで終わる書き方はしない。本書でほとんど唯一まともな大人の女性・三浦教授が、ある加害者の母(彼女と同姓同名で、ある意味「影」にあたる)に放つ、リベンジの短いコメントは、読者にかすかなカタルシスの余韻を与えて終わる。
18歳のある日、たまたま入試で良い成果を出したからといって、その人間が一生優越的な立場にある社会は、明らかに間違っている。人の賢さはむしろ、大学卒業後に、どれだけ考え、どれだけ学ぶかで決まる。生まれつきの知能には多少の差があっても、この点で人は互いに対等だ。このまっとうな道理が、通らない世の中をわたし達は生きている。
だとしたら確かに、わたし達は皆、頭が悪いのだ。
(書き下ろし)