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映画好きがつい長居したくなるようなバーを舞台に自分の「好き」を詰めこんでみたら、こんなお話になりました

映画好きがつい長居したくなるようなバーを舞台に自分の「好き」を詰めこんでみたら、こんなお話になりました

三上 延

はじまりのことば

出典 : #別冊文藝春秋
ジャンル : #小説

「別冊文藝春秋 電子版38号」(文藝春秋 編)

  映画という題材で小説を書きませんか、というお話をいただいたのはかなり昔。少なくとも五年以上前だと思う。私が映画についてよく話していたからだろう。面白い題材だと感じたものの、自分なりの切り口は何なのかと考えたところでぴたりと止まってしまった。

 私は己の知識に自信を持てない性格である。こういうのは好き、これが面白そうという分かりやすい衝動に突き動かされてそれなりに映画を見てきているが、映画マニアと呼ばれるような人たちに知識は到底及ばない。そういう引け目から逃れられない自分が一体何を書けばいいのか。

 そもそも物語の起こる舞台をどこに置くのかも悩みどころだった。シンプルに考えれば映画館だが、空間的に大きすぎてイメージが涌かない。では、レンタルビデオ店なら。十代、二十代の頃はよく利用していたので雰囲気は知っている。しかし、いずれにせよ客とスタッフのドラマを広げにくい。ビデオやDVDを借りたり、映画を見終われば客はそこを去ってしまう。登場人物の内面を掘り下げるには、滞在時間が短すぎるのだ。

 では飲食店はどうか。小さな居酒屋、老舗の喫茶店、洒落たバー。どれも悪くはない。確かに客は長く滞在するだろうが、根本の映画という題材から遠ざかる。

 読者にとって分かりやすく、そしてウケるのは何だろう。

 そうこうするうちに世間では新型コロナウイルスの流行が始まり、映画館へも飲食店へも気軽に行ける状態ではなくなった。自宅の書斎にこもってああでもないこうでもないと考えあぐねていたある日、突然近所にあるブリティッシュ・パブが頭に浮かんだ。

 その時、私が一番行きたい店だった。

 普段は夕方の早い時間帯にふらっと訪れていた。私はビールをよく飲む方だが、あまり味にこだわりはない。だいたいリストの上の方にある、癖のなさそうなペールエールを一パイントとフィッシュ&チップスを注文する。

 魚は鱈だと思うがよく分からない。パン粉ではなくビールで溶いた小麦粉の衣でカリッと揚がっている。そこにクセの強いモルトビネガーをたっぷりかけると、せっかくの衣がしんなりしてくる。一口目の食感は出前の天丼を食べた時のそれに近い。美味しい、と断言できるものではない。しかし、ぞっとするほど食欲をそそられる。とにかく好きなのだ。同じような味覚を持つ人間は他にもいるのではないだろうか。

 そのブリティッシュ・パブには大型モニターがいくつもある。サッカー中継を流すためだ。私が行く夕方にはだいたい電源が切られている。消しているぐらいなら映画でも流してくれればいいのに、と思ったことがあった。同じような感想を抱く人間も、これまたいるのではないだろうか。

 その記憶が蘇った瞬間、頭の中で全てが繫がった。

 まずは自分の行きたい店である。近所にあったら絶対に通っている、好きになれそうな店を脳内に作るのだ。読者にウケるのはもちろん大事だが、作者がお薦めできない店など小説に書いても仕方がない。

 むろん映画の要素は外せない。私は映画が好きだ。レンタルビデオ店も好きだった。それならレンタルビデオ店とビアバーを合体させよう。料理はイギリス料理でなくてもいいが、パブのような大衆的な雰囲気はあって欲しい。ビデオやDVDに囲まれて酒を飲み、料理を食べ、映画の話をするのだ。

 ただし映画の知識でマウントを取り合うような不毛な会話はなし。映画が好きな客なら誰でもつい長居してしまうような場所。マスターや店員もそれにふさわしいキャラクターにする。彼らと映画をめぐる、密やかな物語にしよう。良し悪しについてはさんざん考えた。だからもう、好きなものしか出さない。

 そう心に決めて書いたのが今作である。私の「好き」が詰めこまれたバー・ソラリスに心惹かれる読者がもしいるなら、それに勝る喜びはない。

別冊文藝春秋からうまれた本

別冊文藝春秋 電子版38号 (2021年7月号)
文藝春秋・編

発売日:2021年06月18日

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