岩井俊二が描く、生と死の輪郭線。 モデルが例外なく死に至るという“死神”の異名を持つ謎の絵師ナユタ。その作品の裏側にある禁断の世界とは。渾身の美術ミステリー。
4 絵と詩と歌
三月半ば、浜崎さんがわざわざお見舞いに来てくれた。
「あれ? なんか、すっかり……痩せました? これ、会社に残ってた先輩の私物です」
浜崎さんは玄関の敷台の上に大きな紙袋を二つドサリと置いた。持ち上げてみるとかなりの重さだ。これを会社から運んでくれたのかと思うとなんとも申し訳なかった。
「わざわざごめんね。捨ててくれてよかったのに」
「そんなこと言われてもですね。そんなこと言われてもですよ。転職先見つかりました?」
「まだ、全然。そこまで頭が回ってない」
「そうですよね」
手土産はキーマカレーとタンドリーチキンだった。会社の前に昼時現れるケータリングカーの定番メニューだった。その匂いを嗅ぐとオフィスを想い出して、有り難いような想い出したくないような複雑な気分にさせられる手土産であった。そしてもうひとつの手土産が、WWと会社のイニシャルの入った紺色の手帳だった。この季節になると社員に配られる。市販の手帳は一月から十二月のスケジュールで区切られているものが多いが、会社のは四月スタートになっていて使いやすい、というのが最大の特徴だというが、我々以降のスマホ世代にとっては一度も使うことなく終わってしまう悲しい手帳でもあった。職人の技やこだわりが隅々まで見て取れる創造物は見ているだけで楽しいものではあるのだが、「絶滅危惧種ですよね。もはや」と浜崎さん。
新世代は残酷である。無職の身としては、この手帳が妙に愛おしく思えた。
浜崎さんは私が去った後の顛末を話してくれた。私が退職したのが尾藤さんによるセクハラだったのではないかという噂が社内で爆発し、かねてより快く思っていなかった女子社員たちが会社に正式に抗議したという。その一連のやり取りは動画で撮影され、会社の対応如何によってはネットに晒すと脅したのが効いて、尾藤さんは戒告処分を受けた。社長からの口頭注意である。罰としては軽い方だ。この運動の中心に立ったのが高梨さんだったという。
「八千草花音を一番大切に思っていたのが高梨さんだった、っていうのが今の会社の空気です。常にいいポジション取りますよ、あの方は。それで夜な夜な尾藤さんのマンションに通うんですから凄い女ですよ」
こんな話聞きたくもなかったが、それにしてもこの子、どうしてこんなに裏事情に通じているんだろうと、それはそれで気になった。アニメ好きの腐女子で世間知らずという認識がそもそも間違いだったのかも知れない。それにしたって夜な夜なマンション通いとは聞き捨てならない。高梨さんのことではない。そんなことを知っている浜崎さんが、である。
「それは尾行でもしないと判らないことじゃないの?」
私が指摘すると浜崎さんは両手を口に当てて、しまった! という顔を見せたが、そのポーズのまま顔をこちらに寄せて来て、ウィスパーでこう言った。
「尾行したんですよ」
あなたが? と、私は彼女を指さすと、その頭はコクリとアイドルのように頷いた。
「どうしてそこまで?」
「絶対に言わないでくださいよ」彼女のウィスパーは続く。「私、ハケンなんですよ。知ってます?」
勿論、と私は頷く。
「何処から派遣されたか知ってます?」
「ビズリーチ?」当てずっぽうに答えた。
「デルタベースって会社です」
どこかで聞いたことはある名前だった。
「調査会社ですよ」と浜崎さん。
彼女はつまり会社に雇われたスパイで、社員のそうした情報を経営陣にレポートするのが本業なのだという。会社がそんなスタッフを雇っているとは。開いた口が塞がらなかった。そんな会社、辞めてよかった、とも思うが、彼女のお陰で不正は糾されもしたのだと、浜崎さんには感謝した。
「でも普通に働いてるだけでも優秀なのに、そんなことまでさせられて、なんかかわいそう」
「いやいやいや」私の同情は直ちに否定される。「こんなことでもしてないと退屈ですから、仕事なんて。スリルがないとやってられないす」
あの仕事を退屈と言えてしまうスペック。只者ではない。出来が良すぎると、こういう屈折した考えを抱くものなのだろうか。
「あ、カレー、食べません?」と不意に浜崎さん。
「そうね。温め直そうか」
「あと業務報告ですが、いいですか?」
「はい?」
「先輩が途中で放り投げちゃったハーブアンドスパイスのCM、無事納品完了致しました。カレーで思い出しちゃいました」
この子ならどんな職場でもやっていけるだろうし、羨ましい限りである。かたや私のような人間が職を探すというのは、なかなか骨の折れるものである。ましてや自分の好きな仕事となれば尚更だ。社会に出たら人は何かしらの職に就く。だから私も広告代理店(ウイリアム・ウイロウズ)に入った。
フリーのCM監督、森川徹也はかつてこんなことを言っていた。
「就職なんか考えると、好きなことなんてできないよ」
あの時はお酒の席で、私もいい加減酔っ払っていたし、一体どういう文脈でそういう話になったのかも判らなかったが、どうもこのフレーズだけ克明に憶えていた。それを何度も反芻(はんすう)し、理解しようとする自分がいた。改めて、このことについて聞いてみたいと思った。メールをしてみた。お時間があったら、伺いたいことがあると。森川さんはすぐに会ってくれた。
三月の末、渋谷のとあるホテルのラウンジで待ち合わせをした。
「会社辞めたんだって?」
会うなり、やはり挨拶代わりにこうである。予測はしていたが。はっきり物を言う人間だから俺は、というのが森川徹也という人である。
「なんで辞めちゃったの?」
「聞いてないですか?」
「知らないよ。みんなびっくりしてたよ。過労じゃないかって聞いたけど」
「過労?」
不倫じゃなくてですか、と思わず訊かずにはいられない衝動に駆られたが、口に出せるはずもなかった。
「違うのかい?」
「んー、まあ過労というか、もうちょっと精神的なものですかね。人間関係というか」
「ああそう。で、聞きたいことって何?」
「あ、はい……前に森川さんにこう言われたんですよ。『就職なんか考えると、好きなことなんてできないよ』って。あれはどういう意味だったのかなって」
「そんなこと言った?」
「覚えてないんですか?」
「何時(いつ)?」
「えっと、あれは梅酒のCMの時じゃないですか?」
「適当だなあ。梅酒のCMなんてやってないよぉ」
「えー? ありましたよ。去年の六月ですよ?」
「あ、やったやった」
「森川さんが適当!」
「あれ、梅酒か。焼酎だと思ってた。いや、あれは焼酎だろ」
「梅酒ですよ」
「で、なに? その時にそんな話、したんだっけ?」
「打ち上げの時です。覚えてませんか?」
「んー、覚えてはいないなぁ」
「そうなんですか」
「覚えてはいないけど、まあ多分そんな話をしたんだろうなあ」
「したんですよ」
「まあ、したとして、それがどうしたのよ?」
「いえ、ですから、あれはどういう意味だったのかなって」
「うん、だから、なんでそんなことを聞きたいのよ。なんでそんなことでわざわざ俺を呼び出したのよ」
「あ、すいません」
「俺だって忙しいんだぜ? お会いしたいって言われてさ、会社を突然辞めた子がだぜ? 覚えてもいない飲んだ席で話した与太話の理由をって……」
そこで森川さんは言葉を濁した。まずいと思ったに違いない。きっと私のことを頭がおかしくなった人か何かだと思い始めていたに違いない。彼の身になって考えたら、確かにそうだろう。森川さんは気まずそうな顔をしながら、話の矛先を変えるのだった。いや、閑話休題。話は本題に戻った。