岩井俊二が描く、生と死の輪郭線。 モデルが例外なく死に至るという“死神”の異名を持つ謎の絵師ナユタ。その作品の裏側にある禁断の世界とは。渾身の美術ミステリー。
3 姿ハ似セガタク
私の上司に尾藤明という人がいた。年齢は四十代後半。上から目線の上司が多い中、部下とは友達のような関係でありたい、というポリシーが裏目に出ているタイプだった。距離感が昭和世代。妙に近い。妙に馴れ馴れしい。その癖、人使いは荒い。遠くから見ていたら、すごくいい上司だが、至近距離だと、どこまでも入ってくる、そういうタイプの人だった。そのエピソードは枚挙にいとまがない。多くの女子社員が、身体を触られたり、肩もみを強要された。私もその中の一人だった。映画や舞台に誘われる。私もその中の一人だった。飲みに連れ回される。私もその中の一人だった。とはいえ被害者の中では比較的軽症の部類ではあっただろう。彼はターゲットにしていた女子社員の前では、もっとあからさまだった。真剣に退職を考えている女子社員を複数知っている。鼻の下を伸ばすという言い方があるが、比喩でなく鼻の下が伸びた。意識して伸ばしているようだった。尾藤さんは前歯にコンプレックスがあって、人前に出ると鼻の下を伸ばす。営業の佐久間さんだったか、そう分析していた人がいた。
この人の人物像についてこれ以上描写しても仕方がない気がするので先に進むが、とあるブレストの折、八〇年代カルチャーの話になり、『なんとなく、クリスタル』という小説が話題に出た。田中康夫のデビュー作。一九八〇年、第十七回文藝賞を受賞し、翌年発売されるとベストセラーになった。“ブランド小説”とも呼ばれ、“クリスタル族”という流行語も生んだ。そんなことがウィキペディアに書かれていた。
「そういえば家にあったなあ。今度持って来るよ」
尾藤さんはそう言ったが、その昼休み、私に自分の家の鍵を渡して、今からウチに行って、その本を取ってきてくれと、無茶なことを言い出した。
「午後からのブレストにあった方がいいだろう。そう思うだろ?」
同意を求められても、いいかどうかなんて、そもそもその本を知らない私には答えようがない。しかし仕事で必要となれば断ることもできず、仕方なく、私は世田谷区上馬(かみうま)にある彼のマンションに向かった。彼によれば、この時間家には誰もいないという。彼の鍵でエントランスの入り口と玄関のドアを突破する時は、なにか犯罪者のような心境だった。
彼の部屋は散らかり放題だった。奥さんと子供が二人いるはずだったが。彼のデスクにはそういう家族写真が何枚か飾られていた。その家族は既に崩壊してしまったのだろうか。勝手にそんな想像をして、少し気の毒になった。とはいえこの惨状を部下に見せる神経が理解できない。掃除でもして帰れということだろうか。そんなことまでする義理はないぞ。私は彼が描いた下手くそな見取り図を頼りに、廊下を進み、書斎に辿り着いた。膨大な雑誌や資料の束が書棚では収まらず、床の上まで堆(うずたか)く積み上げられていた。『なんとなく、クリスタル』はその床の上の書物の山から発掘できた。見つけ出すのに二十分はかかっただろうか。見つけ出した時には、この人はサディストだと確信した。人を苦しめることに快楽を感じてるタイプだと。捜索中、手伝ってくれる人が現れたので、二十分で済んだが、その人がいなかったら、一時間じゃ見つけられなかったかも知れない。
それは彼の奥様だった。
突然ドアの開く音がして、振り返ると、一人の女性が姿を現した。
「ここで何をしてるの?」
その人は怪訝(けげん)な顔で私を睨んでいる。
「あの、私は……八千草と言います。尾藤さんの部下で」
その人は自らを名乗ろうとはしなかった。この家の住人であれば侵入者に自己紹介なぞしてくれない。であれば奥様という解釈こそ妥当であった。
「尾藤さんに頼まれまして。本を取りに来ました」
私は動転しながらも、状況を説明した。奥様はすぐには信じなかった。スマホを取り出してどこかに電話している。セコムか? 警察か?
「あ、あたし。今、あなたの部下という人が部屋にいるんだけど、どういうこと?」
電話の向こうは尾藤さんだった。
「いや、ちょっと本が必要でね。急遽。それでその子に探して持ってくるように頼んだんだ」
説明する尾藤さんの甲高い声が私にまではっきりと聞き取れた。身元がはっきりして、私への嫌疑は晴れたかに見えた。しかし電話を切るなり、奥様は私にこう問い糾(ただ)した。
「なに? 恋人?」
「違いますよ!」
私は言下に完全否定した。
「ま、どっちでもいいけど。もう私たち終わってるから。今、別居中。離婚調停中。あっちがちょっとゴネててね。ま、でも、あなたのおかげで今度は少し前に進みそう」
「いえ、あたし本当に違いますよ!」
奥様はニコリと笑った。それからの奥様は掌を返したように陽気な人になり、亭主の愚痴を言いながら、本探しを手伝ってくれたのである。そして例の本を見つけ出してくれたのであった。私はその本と共に会社へと急ぎ引き返し、ミーティングルームを覗くと、午後の会議は継続中で、本を受け取った尾藤さんはそっけなく、ああ、これだこれだと、ページをめくってみせたりして、あたかもその本が会社の机の上にでもあったかのような態度だった。ひとつの褒め言葉も、ねぎらいの言葉もない。こちらもそんなものを求めてはいなかったが、しかし何か多少は大げさなリアクションをしてくれないと、まるで私が理由なく遅刻でもしたかのようではないか。ああ、もうこの人の下では働けない。もうこの会社辞めてしまおう、とさえ思った。しかし、まさか本当に辞めることになるとは、あの時は思いもよらなかった。
不幸は突然、通り雨のようにやってきた。『なんとなく、クリスタル』事件から二日後の朝、先輩の高梨さんからこんなメッセージが送られてきた。
[尾藤とあなたが付き合ってるって会社で噂になってるよ]
全身が凍りついた。肌の上を静電気がビリビリと駆け巡るようだった。
[そんなわけないですよ。私、尾藤さんのこと大嫌いですよ? この会社辞めたいと思ってるくらい嫌いです]
[そうだよね。誰が変なこと言いふらしてるんだろう]
咄嗟(とっさ)に浮かんだのは、尾藤さんの奥様だった。まだ疑っているのか、いや、私を利用したいのか? 私は高梨さんに返事を打った。
[奥さんかも知れません。奥さんに誤解されてる可能性がちょっとあって……]
私は、例の椿事(ちんじ)を詳しく書いて送ろうとしたが、その途中で高梨さんからメッセージ。
[お茶でもしよっか]
思わず涙ぐんだ。
人に聞かれたくない話であることを察してくれたのだろう。高梨さんは会社近くの公園を待ち合わせ場所に指定し、その場所にスタバのコーヒーを二人分携えて現れた。その配慮に胸が熱くなった。ベンチに座ると私は一気呵成にあの日のことを、『なんとなく、クリスタル』事件の顛末を、高梨さんに話して聞かせた。高梨さんは私にひどく同情してくれたが、拡散した噂を取り繕う術は、彼女の知恵を以てしても、皆目見当たらない。一体どのくらいまで広まっているんだろう。そこも心配だった。高梨さんは、この噂を営業のひとりから聞いたという。誰かはちょっと言えないという。そいつは尾藤のことを妬(ねた)んでいるから、という。その人のことを思いやっている風だった。この件で社内でいらぬ波風を立てたくないという風だった。
「まあ、人の噂も七十五日というからね。しばらく我慢するしかないかもね」
しかし、私の精神が七十五日も持たなかった。その翌日にはクリエイティヴディレクターの益川さんからそれとなく訊かれ、その翌日には営業の津村さんから耳打ちされた。高梨さんが言ってた営業の人とは津村さんかも知れないと疑ったりもしたが、こちらから聞ける話でもなかった。この社内でどれくらいの人がこの噂を知ってるのだろう。そう思うと地面がグラグラと揺れた。
その翌日には、浜崎さんにまでその話題を持ち出された。私に零の『晩夏』を送ってきた彼女である。浜崎さんとは私の知る限り、そういう話には無縁の、不思議キャラの派遣社員の女の子であった。彼女の耳にまで届いてしまってはもうダメだ。間違いなくこの会社のほぼ全員の知るところとなった。そう確信した途端、なにかが自分の中でプツリと切れた。私は席に戻ると、衝動的に辞表を書き、机のまわりの私物を会社の紙袋に詰め込んだ。何が起きたのかと目を丸くする浜崎さんに人事課に届けて欲しいと辞表を託し、会社を後にした。本来なら上司に渡すべきところだったかも知れないが、それがあの尾藤なのである。もう顔を合わせるのも嫌だった。紙袋から次々こぼれ落ちるボールペンやらセロハンテープやらを通りの歩道にそのまま置き去りにして、乃木坂駅から千代田線に飛び乗った。明治神宮前で乗り換えて綱島へ。高梨さんからは、驚いたというメッセージ、思いとどまれというメッセージ、私まで泣けてきたと、同情と共感のメッセージなどなどが送られてきて、私も感極まって、座席に座りながら、人目も憚(はばか)らず、涙と鼻水を垂らしながら、返信を打ちまくった。更には浜崎さんからもメッセージが次々、ピョンピョンと届いた。
[人事課に持って行ったら、山口さんがいたので、辞表を提出しました!][私が辞めるのと一瞬間違えられそうになりました!][私じゃなくて、八千草さんだと説明しました!][焦りました!][尾藤さんは知ってるのか? と言うので、知らないと思うと答えてしまいました!]
[……まずかったですか?]
[ありがとう。大丈夫です]
私はそう返信した。もう辞めたのだから関係ない。電車は田園調布を通過し、多摩川を越える。尾藤さんからメッセージが入る。もう関わりたくない。私は彼のアカウントを抹消した。続けて再びメッセージが。高梨さんから、そして浜崎さんからも相次いで。ひとまず浜崎さんのメッセージを開く。
そして息を呑んだ。
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