岩井俊二が描く、生と死の輪郭線。 モデルが例外なく死に至るという“死神”の異名を持つ謎の絵師ナユタ。その作品の裏側にある禁断の世界とは。渾身の美術ミステリー。
6 再会
江辺罪子のインタビューから数週間後、根津さんからメールを頂いた。とあるスペイン料理店のオープンに関わっていて、もし御社の雑誌で取材して頂けたら、お店の宣伝にもなるし有り難いのですが、という内容だった。店情報のURLが添付されていた。代官山である。
土曜の午後、私はその店を訪ねた。店の前で根津さんが待っていてくれた。
「お声がけ頂いてありがとうございます。この間もお世話になりました」
「江辺罪子のインタビュー、原稿読みました。よかったですよ」
「いやいや、私は結局文字起こしだけで、仕上げは先輩に書いて頂きまして。なんか至らない取材で。江辺さん怒らせちゃいました」
「いや、いつもああですから。何にでも噛み付くから大変ですよ。ここはスペイン料理店なんですが、壁面に若い作家たちの作品でも飾ろうかと思いまして。そういう店をもっと増やしたくて。どうでしょう? 記事になりますかね」
「なるようにがんばります。お話聞かせてください」
とはいえ見回すと、その店はまだリフォーム中で、床にはブルーシートが敷かれ、壁は塗装中であった。せめてもう少し出来上がってからでないと。こんな状態で何かの取材になるんだろうか。少なくとも、写真は撮れない。根津さんは一体何を考えているんだろう。しかし当の本人は至ってマイペースで、私にコーヒーでいいかと訊き、私がまごついていると、さっさと店員さんに声をかけ、コーヒーを一つ、と注文する。無茶ではないのか。リフォーム中なのに。
「コーヒーしか出せなくて。すいません」
「いえいえ、コーヒーは淹れられるんですか」
「作れるようにして貰いました。少し我儘(わがまま)言ってしまいました」
根津さんは私を中庭のバルコニーに案内した。先刻そこに座っていたのだろう。テーブルに飲みかけのコーヒーカップと、椅子には彼のものらしき鞄があった。店員さんがコースターで蓋をしたコーヒーカップを運んできた。コーヒーに埃がかからないようにしてくれたのだろう。
私はコーヒーが少し冷めるのを待ちながら、店の改装工事の様子を眺めた。時折、根津さんが店の説明をしてくれるのだが、どうもとりとめがないし、要領を得ない。どうやったらこれを記事にできるのか。なにかアイディアがあったら聞かせて欲しいものだと思っていた時のことである。根津さんが彼方を指さした。
「あの人」
そこには壁に向かってハケをふるっている塗装工がいた。
「君のこと知ってたよ」
「え?」
「高校が一緒だったんだって」
根津さんは立ち上がると、その塗装工の方へ行き、何か話しかけ、その人を連れて戻ってきた。タオルを頭に巻き、Tシャツはペンキにまみれ、腰に道具袋をぶら下げた塗装工。防塵マスクが顔の半分を覆っている。タオルを頭から取ると、長髪を後ろで縛っている。マスクを外すと、無精髭の口元があらわになる。
誰だろう。すぐには思い出せない。
「憶えてますか?」
と塗装工は言った。
「えっと……」
「加瀬です」
まさかこんなところで再会するとは思わなかった。私は動揺のあまり咄嗟に憶えていないフリをした。
「えっと……ごめんなさい」
「憶えてないですよね。学年が二つ下でしたし」
「ああ、美術部の?」
「そうです。後輩です」
「ああ、加瀬くん!」
「八千草先輩には油絵を教わりました。おかげで今も仕事の役に立ってます」
そう言って彼は背後の塗りかけの壁を指さした。
絵はもう描いてないんだろうか。そう思ったが、その時は臆して自分から訊くタイミングを逸した。
「連絡先でも交換したらいかがですか? せっかくだから」
根津さんが不意討ちのようにそう言ったので、私たちはそうせざるを得なくなった。
「仕事終わったら、どうですか? ご飯でも」
「え? ……ああ、はい」
「僕も大丈夫です」
かくして三人で晩御飯をご一緒することになってしまった。
「じゃ、後ほど」
そう言って加瀬くんは現場に戻っていった。
「そんなに接点はなかったんですけどね」
「そうですか」
取材の方は最後まで白黒はっきりしないまま、店がもう少しちゃんと完成したら、また宜しく、ということでその日はおしまいになった。まるで加瀬くんに会わせたかっただけの口実だったのでは? と、鈍い私でも訝るような展開だったが、その夕刻、再度待ち合わせた中目黒の居酒屋で、その疑惑はますます濃厚になった。
「根津さん、来れないそうです」
「あらら。そっか」
あとはご両人で宜しくやってくれということだろうか。
「でもほんと、ひさしぶり。元気だった?」
「まあまあ、なんでしょう。まあ、元気です。先輩は?」
「まあ、元気元気」
彼は大学を卒業してからはずっとフリーターを続けていたが、ここ最近は工務店の社長に気に入られて塗装の仕事をしているという。下北沢の狭いアパートに一人暮らし。まあ、超テキトーな人生です、と笑顔で語る。
「絵の方は? もう描いてないの?」
すんなりその質問が出来たのは、お酒の力もあったかも知れない。
「絵ですか? 絵は今はもう……」
彼は言葉を濁した。彼には彼できっと絵を断念する事情があったのだろう。絵で食べてゆくこと自体、容易なことではないのだ。私の中で、彼を同志のように思える気持ちが芽生えた。少し話し易くなった。
「もったいない。あの絵観たよ。県展の。廃墟みたいな絵」