「ああ。そうですか。わざわざ観に来てくれたんですか?」
「偶然。隣で先輩の卒業展やっててね」
「そうですか」
「『遊びをせんとや逝かれけむ』だっけ?」
「うわっ、よく憶えてますね」
「すごいタイトル」
「元々は『遊びをせんとや生まれけむ』って言葉があるんですよね。それを少しもじりました」
「衝撃だった。才能ある人にはあるんだなって」
「いやいや、ないですよ。しつこいだけですよ、僕なんか」
「そんなことないよ。才能のある人はそういうことを言うから腹が立つ」
「先輩は……絵はもう描いてないんですか?」
「もうやってない」
「ずっと描いてると思ってました」
その彼の言葉が心の奥の方にチクリと刺さった。
「え? そう?」
「はい」
「そんなわけないよ。あたしそんなに上手じゃないから」
「先輩の絵、好きでしたよ」
「私の絵? 憶えてるの?」
「はい」
「マリー・ローランサンのパクりみたいな絵?」
「え? そうですか。まあ似てなくはないですかね」
「えー? 似てないとショック。真似してたんだから」
「雑誌の仕事は面白いですか?」
「まだわかんない。実は今年から。……四月から」
「わっ、最近! 転職したんですか?」
「そ。もともとは、ウィリアム・ウィロウズっていう広告代理店にいたんだけど、社内のゴタゴタに巻き込まれて。超落ち込んで。やっと最近なんとか持ち直して来た」
「そうなんですか」
「会社の上司と噂になって。不倫してるって。完全な濡れ衣」
話しながら同時にそれを客観視しているもうひとりの自分がヒヤヒヤする。こんな話、しちゃっていいんだろうか、と。しかし喋っている当の私はここまで来たらもう喋らずにはいられない。私は酔っている。
「人間が信じられなくなって。会社辞めちゃった」
「そうですか。それで出版社に」
私は不意に思い立ち、スマホを取り出すと、加瀬くんに写真を見せた。零の『晩夏』である。
「この絵の写真。見て。この子、私に似てる?」
「え? ……あー、うん。たしかに」
「『晩夏』って作品。この絵、観に行ったの。今年の三月。なんだろう。見てたら泣けてきちゃって。なんでかわかんないけど。でもなんかやっぱり絵っていいなあと思って。そっち方面で仕事探してたら、知り合いのディレクターのツテでいまの出版社紹介されて。面接の時、この作品の素晴らしさを語ろうとしたら、そしたらまた泣けてきて。……ほら、また泣けてきた」
「それで採用ですか」
「そうなの。ま、結果的には。でもすごいでしょ? 君よりうまいんじゃない?」
「いや、僕なんか全然」
「最初、絵に見えなかった。絵ってわかった?」
「いや、わかりませんでした」
「写真だと思ったでしょ?」
「思いました」
それから私は大学時代の話や、広告代理店時代の話をし、今の出版社と雑誌の話をした。気がつけば店は閉店時間になっていた。彼は殆ど聞いているだけだった。
別れ際、駅までの細い路地を私たちはほろ酔い気分で歩いた。
「また飲もうよ」
「飲みましょう飲みましょう!」
駅につき、私が電車に乗ろうとすると、彼は歩いて帰るという。遠くないのかと思ったが、下北沢は歩いても一時間ぐらいだという。じゃあちょっと私も、ということになり、二人で少し歩いた。私は隣の祐天寺まで。彼にとっては少し遠回りだ。スマホの地図を頼りに、歩いたことのない路地裏を歩いた。
「実は、最近スケッチぐらいは描いてる」
「そうですか。絵はやめないで下さい。先輩が絵をやめるのは寂しい」
「そう? どうして?」
「だって、僕に油絵教えてくれた先輩ですから」
私はこの人とは何か気が合う。付き合えたら良いのに。酔った頭でそんなことを考える。けど、ここから上手くいくことがなかった。いつも私の奥手が原因で恋人未満で終わってしまう。別れ際に私はひとつの告白をした。
「ほんとはまだ採用されてないの。出版社。トライアウト中。記事を採用されたら原稿料貰うって契約で」
「ほとんどフリーですね、それ」
「そうね」
「じゃ、ちゃんと採用されるといいですね」
「そうね……でもそれより、自分の書いた記事にね、ちゃんと名前が載るのが今の夢。八千草花音ってね。ちっちゃくてもいいから」
「その夢、叶うといいですね」
「うん。ありがと。じゃ!」
電車が来た。改札口で見送る彼に手を振って、私は急ぎ階段を駆け上がる。付き合えたら良いのに。そうは思うのだが。私は胸に手を当てる。
そこに残された一筋の傷。それがこういう時、酷いコンプレックスとなって、疼(うず)くのであった。
岩井俊二
1963年生まれ、宮城県出身。『Love Letter』(95年)で劇場用長編映画監督デビュー。映画監督・小説家・音楽家など活動は多彩。代表作は映画『スワロウテイル』『リリイ・シュシュのすべて』、小説『ウォーレスの人魚』『番犬は庭を守る』『リップヴァンウィンクルの花嫁』『ラストレター』等。映画『New York, I Love You』『ヴァンパイア』『チィファの手紙』で活動を海外にも広げる。東日本大震災の復興支援ソング『花は咲く』では作詞を手がける。映画『花とアリス殺人事件』では初の長編アニメ作品に挑戦、国内外で高い評価を得る。2020年1月に映画『ラストレター』が公開、同7月には映画『8日で死んだ怪獣の12日の物語』が公開された。
-
『赤毛のアン論』松本侑子・著
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/11/20~2024/11/28 賞品 『赤毛のアン論』松本侑子・著 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。