- 2021.12.15
- 書評
呪いと自由――体にかかわるコンプレックスや執着が生む恐怖譚
文:朝宮 運河 (書評家)
『軀 KARADA』(乃南 アサ)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
第二話「血流」の主人公は、女性の膝に異様なまでの執着を抱く会社員・文哉である。満員電車内で女性に体を擦り付けるという行為をくり返していた彼は逮捕され、妻の礼子は幼い一人息子を連れて実家に帰ってしまった。同居している文哉の母は、二週間も家を空けている嫁の態度をあげつらい、事情を話せない文哉は苦しい立場に置かれる。
「血流」というタイトルは、文哉のこの性癖に由来している。会社と家庭を往復するだけの生活を送る文哉にとって、電車内で好みの膝をもった女性に接触することだけが、血の流れを感じられる唯一の行為だったのだ。
その行為が二度とできなくなり、砂をかむような生活を送っていた文哉は、ふとした偶然から、より激しい興奮をかき立てるものの存在に気づく。恍惚を求め、新たな犯罪に手を染めるようになった文哉を待ち受けている運命とは……。
まるで江戸川乱歩か谷崎潤一郎を思わせるアブノーマルな小説だが、鬱々とした嫁姑問題を盛り込むことで、より普遍性のある現代ミステリに仕立て上げている。文哉の行為にはまったく賛同できなくとも、退屈な日常からの出口を求めて足掻く彼の姿は、多くの読者にとって共感のできるものではないだろうか。悪人を単なる悪と片付けない、乃南アサの人間観がよく出ている異色の犯罪小説で、「臍」と同様に、バッドエンドともハッピーエンドともつかない、なんとも印象的な幕切れが用意されている。
続く「つむじ」で扱われているのは、多くの読者(とりわけ男性読者)にとって他人ごとではない、頭髪にまつわるコンプレックスだ。二十七歳の会社員・将生の悩みは髪の毛が薄いこと。つむじが四つあるという珍しい体質のために、ただでさえ少ない髪の毛がますます薄く見えてしまう。
将生には菊香という年上の恋人がいるが、三十歳までは身軽でいたいと思っている彼は、のらりくらりとプロポーズを先延ばししている。しかし「はげちまったら、それどころじゃない」「誰からも相手にしてもらえない」と将生は思い悩む。そんなある日、製薬会社に勤めている先輩から朗報がもたらされた。
今日では病院で薄毛の治療を受けることが一般的になっているが、この作品が書かれた一九九〇年代当時はまだそうした状況になかった。とはいえ「はげ始めていることに気づかれる前に、やはり結婚してしまった方が良いだろうか」と打算を働かせ、「丸坊主になっている営業マンなど、会社が喜ぶとも思えない」と真剣に考える将生は、薄毛はみっともない、という価値観にこだわりすぎている。
ビターな味わいの結末において、将生はさまざまなものを失った。ある意味因果応報のラストなのだが、見方を変えれば彼もまた呪いの犠牲者であり、責めたり笑ったりするのは酷な気がする。
第四話「尻」はアンチエイジング、増毛と並んで、常に世間の関心を集めるダイエットがモチーフとなっている。雪国の中学校を卒業後、東京の私立高校に進学した弘恵は学生寮に入り新生活をスタートさせる。ところが東京での日々は楽しさよりも、彼女に過度な緊張を強いるものだった。同級生たちはお洒落で大人びており、地元ではそれなりに垢抜けていたはずの弘恵のプライドを打ち砕く。両親が手を尽くして彼女を裏口入学させたという事実も、同級生との溝を深めていくのだった。東京になじめない。かといって故郷にも帰りたくない。この自尊心と劣等感の入り交じった弘恵の心の揺れ動きが、本作の読みどころのひとつである。
なんとか高校生活になじもうと努力する弘恵だったが、浴室で年上の寮生からお尻が大きい、シェイプアップした方がいいと言われ、自分の体型について初めて気にするようになる。そして孤独な心を埋めるように、極端なダイエットに打ち込みはじめる。
そこから先の展開は、壮絶の一言だ。痩せているイコール魅力的、という呪いに取り憑かれた弘恵が破滅の淵へと歩を進めていく展開はサスペンス味が満載であり、胸をかき乱されるような恐ろしさがある。人間心理のダークサイドを生々しい筆致で描いた、乃南流心理サスペンスの佳品といえるだろう。
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