- 2021.12.15
- 書評
呪いと自由――体にかかわるコンプレックスや執着が生む恐怖譚
文:朝宮 運河 (書評家)
『軀 KARADA』(乃南 アサ)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
第五話「顎」の主人公は故郷の町を捨て、単身東京に出てきた敦。しかし知り合いもない大都会で、中学卒業間もない彼が生きていくのは容易なことではなかった。行く先々で殴られ、虐げられる彼の胸のうちには、社会と自らの境遇への怒りがふつふつと沸き立っている。
ある雨の夜、新聞配達所の先輩に殴られ道端に座り込んでいた敦の前に、フードをかぶった男が現れてこうアドバイスする。「狙うんだったら、顎を狙うんだ」。ミステリアスな男との出会いをきっかけに、もっと強くなりたいと思った敦は、ボクシングジムの門を叩く。
本書収録の五編はいずれも、世の中に居場所を見つけられない人びとの孤独を描いているが、「顎」はひときわ孤独の影が濃い。魂を癒やすために肉体を鍛えあげ、相手ボクサーの顎を殴ることで未来を手にしようとする敦。その短い夢のような人生を、ファンタジックな要素を交えながら描いていく。
他の四編に比べてサスペンス色がやや薄い代わりに(もっとも結末では意外な事実が明かされ、物語をより印象的なものにしている)、肉体の呪縛というテーマがストレートに表現されており、本書のしめくくりにふさわしい一作となっている。
冒頭にも書いたとおり、本書は怖い本である。
主人公たちは呪いによってそれまでの平穏な暮らしを失い、後戻りのできない地点まで押し流されてしまう。この怖さは町中やネットの広告で、日々浴びるように体にまつわる呪いの言葉(痩せましょう、脱毛しましょう、美白になりましょう、体を鍛えましょう、髪を増やしましょう……等々)に触れている私たちにとっても、決して無縁のものではない。
しかし、ここが実に乃南アサらしいところなのだが、本書は単に「体にまつわる呪いって怖いよね」ということを訴えかけるだけの小説でもないのである。
たとえば「臍」の主人公・愛子が手術を受けたのは「幸せ」になりたかったからであり、手術後はきれいになったと褒められて「天にも昇る心地」を味わう。「尻」の弘恵がダイエットに励むのは、異性の目を気にしてというより、「自分の自由になることなど、何一つとしてないような気がした。残された自由はただ一つ、自分の肉体そのものだ」という思いからである。彼女たちにとって体への異様なこだわりは、幸福や自由に通じている道なのだ。たとえその試みが失敗に終わったとしても、彼女たちの姿が生き生きとして幸せそうなのは、誰にも否定できないことだろう。
本書は体によってもたらされるさまざまな不自由や不幸を描く一方で、体を通してしか得られない自由や恍惚もまた忘れずに描いている。プラスとマイナス、そのせめぎ合いの中で浮かんでくるのは不可解で、だからこそ興味の尽きない人間のありようだ。本書がぞっとするような怖さとともに、静かな力強さを感じさせるのは、おそらくこのまなざしに理由がある。
本書は一九九〇年代末の世相を反映しており、キャラクターの価値観や発言には時代の流れを感じさせる部分がある。たとえば一時マスコミを騒がせた援助交際という言葉は今日あまり聞かれなくなったし、女性のショッピングに男性が付き合うのも当たり前のことになっている。
しかし本書の面白さと衝撃は、刊行から二十二年が経った今もまったく薄れてはいない。むしろルッキズム(外見至上主義)という言葉が世界的に注目されるようになった時代だからこそ、体に呪われた五人の物語は、また新たな光を放っているようにも思われるのだ。
優れた小説は時間などやすやすと飛び越える。深くて広い人間観に裏打ちされた本書が、そのことを見事に証明している。
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