文庫版あとがき
あの日、未知の世界へ一歩を踏み出した自分自身に「ありがとう」と言いたい。
「ナショナル ジオグラフィック日本版」のウェブサイトで連載しないかと依頼された時は、当時の自分を励ますような思いで書き始めた。ところが、むしろ逆に、今の僕があの頃の僕に励まされている……そんな気がすることが何度もあった。
旅のあいだ詳細な日記をつけていたわけではない。いくつかのメモと、当時のスライドフィルムをライトボックスに並べて、一コマずつルーペで覗きながらの執筆作業。それなのに、自分でも驚くほど当時のことがありありと蘇ってきた。森の匂い、温度、湿度、湖を渡る風の音……それら写真に写っていないことまで克明に思い出すことができたのは、間違いなく、これがノースウッズへの「初めての旅」だったからだ。すべてが新鮮で、五感に触れたあらゆる記憶が、体全体に深く刻み込まれていたのだろう。
二〇一七年に単行本になった本を持って、翌年、ミネソタ州イリーを訪ねた。お世話になった人々に本を手渡して、直接お礼が言いたかったからだ。
ピラギス・ノースウッズ・カンパニーのスティーブ。ノース・カントリー・ロッジのトムやキャロル。残念ながら行方がわからず会えなかった人もいたが、いつか再会のハグができることを願っている。
ウィル・スティーガーに会うためにホームステッドへ行った。本を手にすると、いつものように「グッド、グッド」と頷いたあと、唐突に「いくつになった?」と聞いてきた。「四三です」と答えると、「キャリアは始まったばかりだな。あと四〇年は旅ができるぞ!」と言われた。その時ウィルは七三歳。二週間後にはカナダ北極圏へ人生最長の単独行に出るところだった。ちなみに、あのキャッスルは……まだ完成していない。
最初の扉を開いてくれたグレッグは、ユースホステルはやめていたけれど、相変わらずキッチンはピカピカ。思い出話に花が咲くうちに、僕が重いザックを背負って彼の前に現れた時のグレッグもまた四三歳だったことがわかった。夢を追う若者を応援できるグレッグのような心を、年を重ねた今の自分も持っていたいと思う。
いよいよ最後に、ジム・ブランデンバーグ。会えたのは『Chased By The Light』から続く二〇年越しの連作を完成させた直後だった。そして、「家族以外ですべての成果を見るのは君が最初だ」と言って、冬至から春分までの九〇枚の写真を見せてくれた。ジムが七〇歳を超えて辿り着いた境地を目撃した僕は、ただただ言葉を失った。「見上げすぎるな」というウィルの言葉が頭をよぎったけれど、ジムは僕にとって、やはりどこまでも尊敬と憧れを抱く写真家である。そしてもう一つ。この訪問の前日、僕は日本から嬉しい知らせを受け取っていた。本書が「梅棹忠夫・山と探検文学賞」を受賞したのだ。それを伝えると、ジムは言ってくれた。「君を誇りに思うよ」と。
では写真家になることが夢だった僕の成果はというと、本書の旅から約二〇年を経た二〇二〇年、初めての写真集『ノースウッズ 生命を与える大地』となって結実した。その序文をお願いする人は、ジム以外に考えられなかった。ジムから届いた序文の最後は、こんな言葉で締めくくられていた。「情熱をわかちあい、ともに生きることから結ばれる兄弟の絆―わたしたち二人は同じ道を選んだのだ」。胸が震えた。弟子入りが叶わなかった時は残念だったけれど、『ブラザー・ウルフ われらが兄弟、オオカミ』の著者であるジムが、他でもない「兄弟」という言葉で僕を呼んでくれたのだ。たとえ最初の目的が叶わなくても、物事がうまくいかなくても、それが後々どんな意味を持つのかは、そこからの自分の生き方次第なのだということを、僕は今、深く実感している。
最後にこの場で、本書に関わる方々への感謝を伝えたい。ウェブサイトの連載を的確なアドバイスとともに見守ってくださった「ナショナル ジオグラフィック日本版」の齋藤海仁さん。単行本化をしてくださったあすなろ書房の山浦真一さん。編集を担当し、刊行後の営業活動・書店巡りから文庫化に至るまでずっと伴走してくれたフリー編集者の松田素子さん。素晴らしい装丁をしてくださったデザイナーの高橋雅之さん。単行本のテイストを残し、さらに磨きをかけてくださった文春文庫部の大沼貴之さんと北村恭子さん。これらの方々の理解と力添えがなければ、この本はこの世に存在していない。
たとえ年齢がいくつであっても、どんな時代であっても、目標に向かって一歩を踏み出そうとする人の手に、この本が届くことを心から願っている。
(二〇二二年三月)
〈文庫版あとがき追記〉
本は出版されたら、それで終わりではありません。むしろ刊行されてからが大事で、手に取ってくれた人、手渡してくれた人、話題にしてくれた人……それら人と人とのつながりによって、一冊の本は広まり、時に深く届けられていくのです。
残念ながら文字数の制限もあって、「文庫版あとがき」で感謝を述べることができたのは、本作りの実務に携わった方々のみになってしまいました。が、実際には、本を手渡す最前線にいる書店員の方々、その書店を回る出版社内外の営業の方々、図書館、読み聞かせの会、家庭文庫など本に関わる場で勧めてくださった方々、書評やレビュー、感想のお手紙を書いてくださった方々、全国各地で講演を準備したり参加してくださった方々……とてもすべては挙げられませんが、そんなひとつひとつの声が後押しとなって、今回の文庫化が実現したのだと感じています。
そして、本当に最後になってしまいましたが、単行本と文庫本の両方で編集を担当してくださった松田素子さん。本書の作り手としてのみならず、少しでも多くの読者に届くよう、編集者という仕事の範疇を越えて、一緒に書店へ挨拶に回ったり、これまで培ってきた人とのつながりを惜しみなく分け与えてくださいました。松田さんが編集をしなければ、この本と自分の置かれた現在の状況は全く異なるものになっていたことは間違いありません。
改めまして、すべての読者と松田素子さんには感謝を申し上げます。文庫となったこの本がどのような出会いをもたらしてくれるのか、これからも続く旅の行方を見届けてもらえたら嬉しいです。
2022年5月10日 大竹英洋
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