2017.01.01 書評

この著者しか書けない、迫真にして超絶技巧の登攀シーン!

文: 宇田川 拓也 (ときわ書房本店)

『その峰の彼方』 (笹本稜平 著)

『その峰の彼方』 (笹本稜平 著)

 読みながら、ハッとさせられる台詞、滋味深く沁み入る言葉、凝り固まった価値観が揺さぶられる文章に出会うたび、手当たり次第に付箋をつけていたら、読み終える頃には本の上部がふさふさと草が生い茂ったようになってしまった。

 二〇一四年一月、単行本として刊行されたばかりの本作――笹本稜平『その峰の彼方』を夢中で読み終えたときの記憶は、いまでも鮮やかに思い出すことができる。二〇〇一年に『時の渚』で第十八回サントリーミステリー大賞と読者賞をW受賞し、その三年後、優れた書き手としての評価を決定づけた第六回大藪春彦賞受賞作『太平洋の薔薇』へと至る過程で、二〇〇二年にエベレストを舞台にした山岳冒険巨編『天空への回廊』を発表以降、『還るべき場所』、『未踏峰』、『春を背負って』、『南極風』と紡がれてきた笹本山岳小説の「これぞ最高到達点!」と、快哉を叫んだものである。

 いまや笹本稜平を「二〇一〇年代山岳小説の第一人者」と呼ぶことに異論を唱える者はいないと思うが、その作品のなかでも屈指の出来栄えを誇る本作がこうして文庫化され、より広く手に取りやすい形になったことは喜ばしい限りだ。

 本作の舞台となるのは、北米の最高峰――マッキンリー。標高六一九四メートルというと、さらに二七〇〇メートルも高いエベレストに比べて見劣りするように感じる向きもあるかもしれない。しかし、山麓からの高度差ではマッキンリーが一八〇〇メートル上回っており、じつは冬季登攀の難度でいえば“世界最高峰”にも伍するほどなのだ。一九八〇年代、ふたりの著名な日本人登山家――植村直己と山田昇が、それぞれこの冬のマッキンリーに挑み、ともに帰らぬ人となっていることは、ご存知の方も多いだろう。

 物語は、登山家である吉沢國人を乗せた旅客機が、アラスカ州のテッド・スティーブンス・アンカレッジ国際空港に着陸しようとする場面から始まる。吉沢の盟友で、アラスカの山のエキスパートである津田悟が、古くからマッキンリーの代表的バリエーションルートとして知られるカシンリッジの冬季単独登攀に挑み、その途中で消息を絶ったと、彼の妻――祥子から連絡があったのだ。

 吉沢は機体が着陸するまでの間に、三年前、津田とともにウェストバットレスルートからマッキンリーの冬季登攀に成功したあと、津田が口にした言葉を思い出す。

 冬のマッキンリーを“魂にとっての魔物”と表現し、「あっちの世界へ引きずり込まれそうになる」。「一人で登ると、いつも帰るのにものすごい意志の力が必要になる。なんて言うのかな。要するに帰りたくなくなるんだよ」。そして、登ることと同じくらい帰ることに意味があると反論する吉沢に対し、「それは本質的なことじゃない」と断わり、津田はこう告げるのだった。

 ――おれは生きているふりをしているのが嫌なだけなんだ。

 なんともギクリとさせられる台詞である。年齢を重ね、社会に属し、毎日を繰り返していると、いつしか世渡りのために自分を抑え、「ふり」をすることも当たり前になってしまうものだ。このくびきから解放され、ひとからどう見られようと、どのような非難を受けようとも、自身の求める生き方を貫き続ける難しさは並大抵のものではない。

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その峰の彼方
笹本稜平・著

定価:本体840円+税 発売日:2016年12月01日

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