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この著者しか書けない、迫真にして超絶技巧の登攀シーン!

この著者しか書けない、迫真にして超絶技巧の登攀シーン!

文:宇田川 拓也 (ときわ書房本店)

『その峰の彼方』 (笹本稜平 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

『その峰の彼方』 (笹本稜平 著)

 読みながら、ハッとさせられる台詞、滋味深く沁み入る言葉、凝り固まった価値観が揺さぶられる文章に出会うたび、手当たり次第に付箋をつけていたら、読み終える頃には本の上部がふさふさと草が生い茂ったようになってしまった。

 二〇一四年一月、単行本として刊行されたばかりの本作――笹本稜平『その峰の彼方』を夢中で読み終えたときの記憶は、いまでも鮮やかに思い出すことができる。二〇〇一年に『時の渚』で第十八回サントリーミステリー大賞と読者賞をW受賞し、その三年後、優れた書き手としての評価を決定づけた第六回大藪春彦賞受賞作『太平洋の薔薇』へと至る過程で、二〇〇二年にエベレストを舞台にした山岳冒険巨編『天空への回廊』を発表以降、『還るべき場所』、『未踏峰』、『春を背負って』、『南極風』と紡がれてきた笹本山岳小説の「これぞ最高到達点!」と、快哉を叫んだものである。

 いまや笹本稜平を「二〇一〇年代山岳小説の第一人者」と呼ぶことに異論を唱える者はいないと思うが、その作品のなかでも屈指の出来栄えを誇る本作がこうして文庫化され、より広く手に取りやすい形になったことは喜ばしい限りだ。

 本作の舞台となるのは、北米の最高峰――マッキンリー。標高六一九四メートルというと、さらに二七〇〇メートルも高いエベレストに比べて見劣りするように感じる向きもあるかもしれない。しかし、山麓からの高度差ではマッキンリーが一八〇〇メートル上回っており、じつは冬季登攀の難度でいえば“世界最高峰”にも伍するほどなのだ。一九八〇年代、ふたりの著名な日本人登山家――植村直己と山田昇が、それぞれこの冬のマッキンリーに挑み、ともに帰らぬ人となっていることは、ご存知の方も多いだろう。

 物語は、登山家である吉沢國人を乗せた旅客機が、アラスカ州のテッド・スティーブンス・アンカレッジ国際空港に着陸しようとする場面から始まる。吉沢の盟友で、アラスカの山のエキスパートである津田悟が、古くからマッキンリーの代表的バリエーションルートとして知られるカシンリッジの冬季単独登攀に挑み、その途中で消息を絶ったと、彼の妻――祥子から連絡があったのだ。

 吉沢は機体が着陸するまでの間に、三年前、津田とともにウェストバットレスルートからマッキンリーの冬季登攀に成功したあと、津田が口にした言葉を思い出す。

 冬のマッキンリーを“魂にとっての魔物”と表現し、「あっちの世界へ引きずり込まれそうになる」。「一人で登ると、いつも帰るのにものすごい意志の力が必要になる。なんて言うのかな。要するに帰りたくなくなるんだよ」。そして、登ることと同じくらい帰ることに意味があると反論する吉沢に対し、「それは本質的なことじゃない」と断わり、津田はこう告げるのだった。

 ――おれは生きているふりをしているのが嫌なだけなんだ。

 なんともギクリとさせられる台詞である。年齢を重ね、社会に属し、毎日を繰り返していると、いつしか世渡りのために自分を抑え、「ふり」をすることも当たり前になってしまうものだ。このくびきから解放され、ひとからどう見られようと、どのような非難を受けようとも、自身の求める生き方を貫き続ける難しさは並大抵のものではない。

 津田の信条は一見すると自殺願望のようにも聞こえるが、祥子が津田の子を身籠り、さらには略奪と搾取によって長く虐げられ、いまもなお貧困生活を余儀なくされているアサバスカ・インディアンの保留地を豊かにすべく、あるプロジェクトに力を注いでいたことを考えると、必ずしもそうではないようにも思える。

 こうして、津田のつかみ切れない真意と行方を追う、吉沢を含めたチームによる捜索行がスタートするわけだが、本作の大きな美点のひとつに、偉大なる山への畏敬、登山家が内に秘めた一途な――常人には容易に理解できないほどの強い挑戦の念、そして人間が生きている限り抱くべき希望を、それまでの作品を凌駕する洗練された透明度で描き切った点が挙げられる。

 作家活動の初期に発表された『天空への回廊』では墜落した人工衛星をめぐる国際謀略小説の要素が盛り込まれ、スリリングな活劇で読み手を力強く牽引していたが、続く『還るべき場所』では一転して謀略活劇要素を削ぎ落し、ストレートな山岳小説をものしてみせた。ここから笹本山岳小説は、前述の三つの要素を揺るぎない説得力とともに伝えるべく純度の向上に心を砕いてきたように思う。その腐心が本作では、ひとつの到達点を迎えたと感じるほど見事に成し遂げられている。冒頭でも述べたように、物語の至るところに散りばめられた、たとえば「未来を決める権利は人間にはないかもしれないが、信じることはできる。信じる力は涸れることのない勇気の泉なんだよ」という台詞に代表される、単行本の帯で「魂の言葉」と称された箴言の数々を、じつに素直な気持ちで受け止められるのは、この達成ゆえであることは間違いない。

 また、これまで笹本山岳小説に触れたことのある読者なら、本作の“洗練された透明度”に、ほかの作品にはないどこか異なる質感を覚えることだろう。

 ある箇所で、現在の津田の言動や生き方が、アサバスカ・インディアンの長老――グレッグ・ワイズマン・ギーティングから大きな影響を受けていることが明らかになるが、こうした先住民の思想が通底し、日本人が主人公の物語ではなかなか得られないタイプの神聖さを獲得しているのもまた、本作の読み逃せない重要なポイントといえよう。

 ただし、本作の白眉は、これまで挙げてきた美点とはさらにべつにある。

 てらいなく、真っ直ぐに、まるで工夫や技巧に背を向けるような、引き算で構成された印象を抱かせる物語の後半において、笹本稜平はこれまで培ってきた小説家としての膂力と技能を全開にし、意表を突く手法でクライマックスへと進んで行く。これが凄い。笹本作品で描かれる迫真の登攀シーンは誰もが認めるところだが、本作のそれはアイデアとテクニカルともに優れた、まさに小説でしか成し得ない超絶技巧だ。この手があったか! と膝を打ち、物語の不鮮明だった部分がみるみるクリアになっていく様子を無我夢中で追い掛けてしまうだろう。ちなみに、登山家が秘めた常人には容易に理解できないほどの強い挑戦の念は『大岩壁』に、小説でしか描くことができない登攀シーンは『分水嶺』に引き継がれているので、ぜひこちらにも手を伸ばしてみていただきたい。

 笹本山岳小説は本作でひとつの到達点を迎えたが、まだ頂上へと至ったわけではない。これからもさらなる高みを目指し、「二〇一〇年代山岳小説の第一人者」の評価を不動のものとする傑作を続々と紡いでくれるはずだ。遥かにそびえる峰を前に、自信をなくし、心細く立ち尽くすような毎日を送るひとびとに、その峰の彼方にある希望の光輝を垣間見せ、信じさせてくれるような傑作を――。

文春文庫
その峰の彼方
笹本稜平

定価:924円(税込)発売日:2016年12月01日

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