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現代の地方のリアルな現実を映し出しつつ、ミステリの骨格を際立たせてくれた

現代の地方のリアルな現実を映し出しつつ、ミステリの骨格を際立たせてくれた

文:篠田 節子 (作家)

『Iの悲劇』(米澤 穂信)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

 格別、事件も謎解きも登場しない第五章では、末端の行政担当者の知恵と努力などでは、どうにも解決しない過疎地を抱えた自治体の現状が地方政治を絡めて語られる。本書を連作短編として読むと、この章が浮くのだが、実はテーマに直結した重要なパートになっている。

 そして一見社会派ミステリを思わせる序章の「Iの悲劇」に対応する「Iの喜劇」の終章に至って、昔流行ったオセロゲームのごとく一気に黒白反転して勝負あり、となる。鮮やかな展開に驚かされ、同時に単なるゲームではないリアリズムに深くうなずく。

 

「Iの悲劇」に登場する行政の現場と地方の現状、人物像はすこぶるリアルだ。しかし設定と人間関係に目を凝らすと整然として余計な要素がないことに気づく。旧住民が一人もいない開拓地のような村や、市長の直属部署といった組織内の特殊な位置づけなども、その一つだ。

 作中で発生する現実的なトラブルがいくつかの謎をはらみ、それぞれの章の終わりで一応、解決されるが、なお謎は残り、最終章でラストピースがぱちりとはまって鮮やかに着地する。

 過疎地域を抱える地方の現実や、公務員の仕事、予算や地方政治などが描かれていることから、一見、社会派ミステリに見えるが、犯罪の動機に重点を置き社会の矛盾を糾弾する古いタイプの社会派ミステリではない。造りから言えば、むしろ本格に寄った正統派ミステリといえるだろう。

 リアルな事情と利害関係や情緒が強烈に絡む人間心理を緻密に描けば、重厚感は増す。しかし一方で論理的整合性を重視し、そこに面白さや美を見いだすミステリ小説においては、それが雑味になり得る。現代の地方の現実をリアルに映し出しつつ、米澤穂信はそこから雑味を見事に取り除いて、ミステリの骨格を際立たせてくれた。

 

 中世ヨーロッパを舞台に殺人事件の謎解きを行うスケールの大きな本格ミステリ「折れた竜骨」、日常の謎を少年少女が解いていく青春ミステリでありながら極めて知的な企みに満ちた「古典部シリーズ」、そして第百六十六回直木賞を受賞した歴史本格ミステリ「黒牢城」。舞台も題材も様々なのだが、貫かれているのは謎解きを通して論理的整合性を追求する本格ミステリの精神だ。しかし米澤穂信の作品に共通する要素はそれだけではない。

 効果的にシーンを立て、肌触りや匂いまでも描写していく圧倒的な筆力と、常識的発想を超えた真実を見極める視点、それを読み手に伝える文章力だ。

 第二十七回山本周五郎賞他、ミステリランキングの三冠を達成した短編集「満願」では、やはりミステリ関係者による評価が多いせいか積極的に取り上げられない「万灯」について、私は衝撃を受けた。

 好景気にうかれる日本を離れ、過酷な海外勤務で辣腕を振るう有能なビジネスマンが、殺人へと追い詰められていく様が、驚くべき密度と切実感を伴って活写される。

 凡庸な冒険小説なら無頼で純粋な正義の味方と品性下劣で私利私欲に走る敵役、といったおざなりな構図の上に暴力と殺人に至るところを、遠大な理想を求めて手段を選ばぬ若いインテリと実現可能な方法で生活の改善を求める年配の顔役たちという現地の村の対立構図が提示される。そこに会社の利益だけでなく国益までも背負った商社マンが入っていき、さる決断を下し実行するが……という話だが、日本人ビジネスマンとしての行動規範と倫理、野心と使命感、諸々が交錯し、悲劇になだれ込んでいく。周到に準備され実行された完全犯罪が、思いも寄らぬ要因によって瓦解してしまうという、古典ミステリの妙味も備えており、ジャンルを超えてこの数十年の間に発表された短編のうちでもベストテンに入る作品であろうと私は思う。

 息詰まるような心理描写でその場の空気感までも生々しく表現していく重厚な作品を生み出したかと思えば、完璧な論理構成で読者を驚かせる軽妙で知的な味わいの作品も発表する。題材も肌触りも多様だが、共通しているのはどれも紛れもないミステリ、ということだ。それもたいへんに上質な。

文春文庫
Iの悲劇
米澤穂信

定価:836円(税込)発売日:2022年09月01日

電子書籍
Iの悲劇
米澤穂信

発売日:2022年09月01日

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