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ふわふわの羊毛、盛岡のあつあつ「ちいたん」…何度も立ち止まりたくなる小説

ふわふわの羊毛、盛岡のあつあつ「ちいたん」…何度も立ち止まりたくなる小説

文:北上 次郎 (書評家)

『雲を紡ぐ』(伊吹 有喜)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

『雲を紡ぐ』(伊吹 有喜)

 本書『雲を紡ぐ』の真ん中から少しあとに、すごくいい場面がある。盛岡で染織工房を営む祖父紘治郎のもとに母真紀が訪ねてくるくだりだ。祖父紘治郎、母真紀、そして美緒の三人が、水路の近くにある木の陰に折り畳みのテーブルと椅子を設置し、水路で冷やしていたサイダーを引き上げて飲むシーンである。

 会話が弾んでいる祖父と母を背にして、美緒がサイダーの瓶を持って席を立ったのは、この瓶に水を汲んで、今度は水だけを母に飲んでもらおうと思ったからだ。そこから数行を引く。

 

 この畑で一番きれいでおいしいものは、岩手山が磨いたこの水だ。

 サイダーの瓶に水を満たして立ち上がると、清々しい風が吹いてきた。

 髪を押さえ、風の方角に顔を向ける。トウモロコシと高さを競いあうようにして伸びたヒマワリが目に入ってきた。

 赤い実をつけた茨の藪と地続きなのに、ヒマワリの根がこの土の養分を吸うと、太陽に似た黄色い花が現れる。

 藪の実の赤と黒、紫。ヒマワリの黄色。そして川原の小道に咲いていた淡いピンクや黄色の花々。

 さまざまな色を生む土が気になり、美緒は爪先で地面を軽く掘ってみる。

 

 きれいなシーンだ。風がそよそよと吹いて、色とりどりの草花が咲き乱れている。しかも東京にいるときはいつも怒っている母が穏やかな表情で祖父と話し込んでいる。つまりこの風景が美しいのは、美緒の心の平穏を映しているからだ。

 しかし本書を読み終えた私たちは、このシーンにもう一つのシーンが続くことを知っている。同じ場面を母真紀はどう見ていたか。

 そのしばらくあとで、母真紀はこう言うのだ。

「どうしてあなたはいつも女を売りにするの。さっきだってそう。自分が話の中心になれなくなったらプイッと席を立って、拗ねて土なんか蹴って」

 まさか母がそんなことを思っていたなんて、と美緒は驚く。母に水をあげたかっただけなのに。そのことを説明したい。でも言葉が出てこない――というシーンが、さきほどの美しい場面に続くことに留意。母と娘の和解は、まだ遠いというくだりである。

 気持ちのいい風が吹いて、色とりどりの草花が咲き乱れて――という美しい場面が事態を根本的に解決してくれるならこれほどいいことはないが、そんなことはないのだ。美しい光景は束の間の至福なのだ。そういう現実をきっちりと描いているからこそ、その場面がよりいっそう印象的に光り輝いている。

 さらにもう一つ。このとき美緒はなぜ喋らないのかという問題がある。祖父紘治郎の言う「言はで思ふぞ、言ふにまされる」について、父広志が次のように説明することも続けてここに並べておく。

「言えないでいる相手を思う気持ちは、口に出して言うより強い」

 そういう意味だと広志は言う。岩手県の県名の由来には諸説あるが、これもそのひとつだと本書にある。祖父紘治郎は言う。

「美緒について言えば、相手を従わせようとして黙っているわけではない。気持ちをうまく言葉にできず……。あるいは人に言うのがつらくて、何も言えないでいる。ただ、それだけだ。せき立てずにゆっくり見守ってやれば、あの子の言葉は自然にあふれてくる」

 なるほどと納得するくだりだが、母真紀に言わせれば、黙っているのは美緒だけではない。祖父紘治郎も父広志も、みんな口が重く、美緒はその血を濃く継いでいる。

 問題はそういう無口の一族と、物事をはっきりさせていきたい真紀のような人間が、一緒に暮らしていくにはどうしたらいいのか、ということだ。高校でいじめにあって不登校になった娘に対して、逃げてはダメと母真紀は叱咤激励し、何も言わない父広志とそのうちに夫婦仲がおかしくなる。教師である真紀はSNSで叩かれて焦燥しているし、会社員の広志は仕事上の問題があって家庭のことまで頭がまわらない。二人ともにそういう問題をかかえているのだが、これでは耐えられなくなった美緒が盛岡の祖父のもとに行くのも止むを得ない。そして祖父の営む染織工房には、ふわふわの羊毛がある。それに触れたときの美緒の新鮮な驚きを引いておく。

文春文庫
雲を紡ぐ
伊吹有喜

定価:847円(税込)発売日:2022年09月01日

電子書籍
雲を紡ぐ
伊吹有喜

発売日:2022年09月01日

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