- 2022.09.12
- 書評
ふわふわの羊毛、盛岡のあつあつ「ちいたん」…何度も立ち止まりたくなる小説
文:北上 次郎 (書評家)
『雲を紡ぐ』(伊吹 有喜)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
ザルのなかには、純白の羊毛がこんもりと入っていた。朝見たときは、濡れてぺったりとしていたのに、太陽の熱をたっぷりと含み、綿菓子のように盛りあがっている。
手にのせると、そのやわらかさに思わず右頰に当てていた。
ああ、と思わず声がもれた。真っ白なホイップクリームのような毛の感触に、頰がとろけそうになる。
こんな素晴らしい感触を知ってしまったら、東京に帰る気はしなくなる。美緒の驚きがあまりに新鮮なので、まるで自分が触っているかのように錯覚してしまう。こういう読みどころに本書はあふれている。
たとえば、「子どもといっしょに暮らした日々は案外、短かったな」という紘治郎の述懐にも立ち止まる。家業を嫌って東京に出た息子が帰省したときの紘治郎の述懐だが、それは私たちのような年配者に共通する感慨でもある。もう一つ、家出した娘の美緒を迎えにいった父親の広志が盛岡じゃじゃ麵発祥の店「白龍」で「ちいたん」を頼むシーンがある。「ちいたん」とは、鶏蛋湯の略で、つまりは鶏の卵のスープということだ。麵を少し残した皿に生卵を割り入れ、そこに新たな味噌とネギ、熱いスープを足すものだ。盛岡には何度も行っているのに知らなかった。とにかく美味しそうだ。ようするに、この小説のあちこちで立ち止まるのである。これはそういう小説だ。
作者の伊吹有喜は、第3回のポプラ社小説大賞の特別賞を受賞した『夏の終わりのトラヴィアータ』を『風待ちのひと』と改題し、2009年にデビューした。この第3回のポプラ社小説大賞はすごい。大賞はなしの年であったが、優秀賞が小野寺史宜『ロッカー』で、特別賞が伊吹有喜の前記の作品ともう一作、真藤順丈『RANK』で、候補作には千早茜の名もあるから、のちの才能が集結した伝説の回といっていい。
それから13年、伊吹有喜は快調に作品を発表しているが、いい機会なので私がいちばん気になっていることを最後に書いておきたい。「なでし子物語」だ。ここまで書かれたのは次の3作だ。
『なでし子物語』2012年11月
『地の星 なでし子物語』2017年9月
『天の花 なでし子物語』2018年2月
ヒロインは、静岡県の山間部で山林業と養蚕業を営む遠藤家で育った耀子。その10歳の日々を描くのが第一部で、『地の星』では28歳、『天の花』では18歳。壮大なヒロイン大河小説である。読みごたえ抜群の書だ。お断りしておくが、「なでし子物語」はこの3作で十分に堪能できる。しかし個人的な願望にすぎないのだが、このシリーズをあと2作、書いてほしいとずっと熱望していた。
38歳の耀子と、48歳の耀子を、描いてほしいと切に思っていたのである。新しい事業を起こした『地の星』のラストでこのシリーズはとりあえず終わっているが、その先の展開を読みたいのだ。龍治の庇護から離れ、自立していく姿を描いてこそ、このヒロイン大河小説の結末にふさわしいのではないか。
そう考えていたら、続編がすでに連載されていたことを教えられた。気がつかずにすみません。その第四部は、『常夏の光 なでし子物語』と題して年内には刊行される予定というから愉しみだ。なんと38歳の耀子が描かれるという。おお、素晴らしい。まだその第四部を読んでもいないのに気が早いことだが、出来れば48歳の耀子を描く第五部も書いてほしい。そのときまで元気でいたい。それがただいまの私の目標である。
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