- 2022.10.18
- 書評
既成概念を覆すSF小説
文:楊子葆 (前台湾文化部次長、前台湾駐フランス代表、現駐アイルランド代表)
『拡散』(邱挺峰)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
本書は非常に面白いワインSF小説だ。詰め込まれたさまざまな要素は、ダン・ブラウンの作風、あるいは『ダ・ヴィンチ・コード』で人気が爆発する前のダン・ブラウンを思い起こさせた。だが私は著者を・台湾のダン・ブラウン・と呼ぶつもりはない。この小説の初稿を読んだ時、架空の舞台の中にあふれ出るワインの歴史、地理、風土、人文知識、哲学の中にも、そして魅力的なストーリーとミステリアスでスリリングな展開の中にも、台湾の風味を少しも感じることができなかったからだ。私は著者と面識があり、著者が台湾人であることも知っている。ぼんやりした頭で、今読んだのは翻訳小説だろうかと、つい疑ってしまった。行間に見え隠れする情報は、著者はフランス人か、スペイン人か、ポルトガル人か、あるいはラテンアメリカ人か、アメリカ人かと錯覚させる。とても台湾人が書いたとは思えない。彼が台湾人だと分かっていてもだ。これは非常に特殊で得がたい体験だった。
批判しているつもりはない。少なくとも私は「台湾人が書いたとは思えない」という言葉は、既成概念を覆すSF小説にとっては特別な賛辞に当たると考えている。
私は心から称賛したい。これは成熟したテクニックでワインに関する見聞と見識と知見を整理した小説だ。少し重いが「優れた口蓋を持っている(with a good palate)」。
あらゆる専門的な集団がそうであるように、ワイン界隈にも一般の人にはなじみの薄い言い回しがある。例えば、ワインの味に敏感な人に対して「彼は優れた口蓋を持っている(He has a good palate.)」と言ったりする。
palateを「味蕾」と訳す人もいるが、「味蕾」の英訳はtaste budsだ。palateは「口蓋」あるいは「上あご」とするのが正しい。人類やその他の哺乳動物の口腔の上部と、上唇に並ぶ歯はつながっている。唇と歯から内側に伸びる硬い組織が「硬口蓋(hard palate)」であり、さらにその奥へと続く部分を「軟口蓋(soft palate)」という。硬口蓋と軟口蓋は横隔膜のように口腔と鼻腔を仕切っている。専門家によると、「口蓋」は高度に進化した動物が持つ特徴だという。ワニ類を除き、大多数の四足歩行のその他の動物の口腔と鼻腔は、人類のように完全には分かれていないからだ。
私たち高度に進化した人類には「口蓋」がある。生理学的に言うと、硬口蓋は味覚や嗅覚に関連する細胞を持たない。軟口蓋に味蕾はあるが、ごくわずかだ。味覚を感じる細胞は主に舌の上の味蕾で、嗅覚は鼻腔の粘膜の受容体に集中している。両者は「口蓋」によって、上下二つの異なる空間に明確に隔てられている。だが、そうであるからこそ、「優れた口蓋」という言葉で風味に対する敏感さを形容するのは、逆に理にかなっているとも言えるのだ。単に優れた味覚とするだけでは不十分だ。優れた嗅覚でも足りない。優れた嗅覚と味覚を合わせ持っていると言うのは少し冗長だ。その中間の「優れた口蓋」という言葉で「味が分かる」ことを形容するのが、おおむね妥当な表現だと言えるだろう。
「味が分かる」とはどういうことだろうか? アメリカのワイン評論家マット・クレイマー氏は《ワイン・スペクテーター》誌二〇一二年四月号に寄稿した文章でこう問いかけた。「Do you have a good palate?――あなたはワインの味が分かりますか?」
クレイマー氏によると、大部分の人、特にワイン界隈のいわゆる専門家は、相手が「優れた口蓋」を持っているか否かを判断する際に、自分と同じ基準を持っているかどうかを見る傾向があるという――もし相手の好きなワインが自分と同じなら、ワインの味を分かっている、というわけだ。つまるところ、味のよしあしよりも「共感」を求めているのだ。
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