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戦後、国民的人気を博したアナウンサー・和田信賢を描く、〈伝える側〉の物語

戦後、国民的人気を博したアナウンサー・和田信賢を描く、〈伝える側〉の物語

堂場 瞬一

『空の声』(堂場 瞬一)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

『空の声』(堂場 瞬一)

 駆け出しの頃、ベテラン編集者から「作家は評伝を書いてこそ一人前」と言われた。そのことがずっと頭に引っかかっていて、実際にターゲットにしている人もいる。例えば、1930年代から1950年代に活躍した喜劇役者の古川ロッパ。何とか書きたいと長年資料を集めながらも、未だ実現できていないが、逆に一瞬で引きこまれて書き上げてしまった人もいる。私にとってそれが、和田信賢だった。ただしこれは評伝ではない。あくまで小説だ。

 

 2020年の東京五輪を前に、五輪関係の小説を何冊か一気に刊行しよう、という企画を2017年から進めていた。地元で五輪が行われるのは、私の人生でこれが最後だろう、という思いがあったからだ。その時には、まさかコロナ禍で開催が1年先延ばしになるとは考えてもいなかったのだが。

 得意のマラソン、日本が金メダル獲得の可能性がある野球、大谷翔平ではないが複数競技の「二刀流」という3本は比較的早く決まったのだが、もう1本で悩んだ。一つぐらい、オリンピックの歴史を振り返る作品があってもいいな、ぐらいの考えでいたのだが、具体的に何を取り上げるかがなかなか決まらない。

 どうしたものかと、当時の文藝春秋の担当者と本格的に打ち合わせを始めたのが、2017年の秋である。オリンピックの歴史と言っても、日本人が最初に参加したストックホルム五輪は、別の作品で書いている。どうしたものか……。

 担当者とあれやこれや案を出し合い、日本が戦後、国際社会に復帰して最初に参加した夏季五輪、ヘルシンキ大会を舞台に取り上げることは決まった。この時は、レスリングフリースタイルの石井庄八が、金メダルを獲得している。戦後初の日本人金メダリストか――と一瞬心が動きかけたが、レスリングというのは、描写が非常に難しいスポーツだ。試合シーンの描写に命を賭けている私としては、これは大変な難題になる。

 さらに調べていって行き当たったのが、和田信賢という存在だった。体調が悪い中、現地からの中継に参加して、その後パリで客死――こういう劇的な人生は、作家の琴線に触れる。しかも、日本放送史の黎明期に一際輝く存在だったことも分かった。こういう情報が積み重なった末、担当者と顔を見合わせて「勝ったな」とニヤリとした。

 元々「報じる側」にいた私にとって、五輪を「伝えた」人を主人公に取り上げることには意義がある。私はペン、和田さんはラジオというメディアの違いはあるものの、大先輩の足跡をたどってみたくなったのだ。

 わずか1時間かそこら調べただけで、私はまったく偶然に知った和田信賢という人物の虜になっていた。これだけの人を書かないわけにはいかない。

 

 本書内でも和田さんのキャリアについては触れているが、ここで改めてまとめておく。

 1912年、東京に生まれた和田さんは、1934年、日本放送協会に第一期のアナウンサーとして入局する。和田さんが一躍その名声を輝かしいものにしたのは、戦前の相撲中継である。双葉山の連勝記録が69で止まった時の中継を担当していたのがまさに和田さんで、その情緒あふれる実況は、当時の相撲ファンの想像力をどれだけかきたてただろう。本人は、自分の中継を「瞬間芸術」と呼んでいたという。

 和田さんはその後、1945年8月15日の終戦放送の進行役を担当、終戦の詔勅を朗読した。アナウンサーとしては「硬軟」両方をこなせる人だったことが、ここからも分かる。戦後は山形放送局に異動になったが、直後に退職、講演などの活動をすることになる。しかしアナウンサーとしての技術と人気をNHKが放っておくわけもなく(当時は民放がなかった)、間もなくラジオクイズ番組「話の泉」の司会者になった。バラエティ番組の走りのようなものだが、徳川夢声(作家、俳優)やサトウ・ハチロー(詩人、作詞家)山本嘉次郎(映画監督)ら癖のある出演者を向こうに回して番組を盛り上げ、司会者としての人気は戦後の絶頂期を迎える。最近はアナウンサーもタレント化しているが、その走りとも言える存在であったようだ。

文春文庫
空の声
堂場瞬一

定価:880円(税込)発売日:2022年11月08日

電子書籍
空の声
堂場瞬一

発売日:2022年11月08日

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