誰かいるのか?
ヒは問う。返事はない。ヒの問いがヒの体の中でこだまする。誰かいるのか? 誰かいるのか? 誰かいるのか?
声はたしかに聞こえる。どこから聞こえてくるのかわからない。聞こえ始めたころはとくに気にしていなかった声だった。だが次第に音が大きくなるにつれ、自分の頭がつくりだした声なのか、それとも頭の外からの声なのか、出所を知らなくてはならなくなった。それを突き止めないことには、どれほど頭の中に言葉を増やそうと、いくら急いで歩みを進めようと、どこへも行けないのだとふと気が付いたからだ。自分の頭と体の外へは一歩も出られないことを悟ったからだ。
声は、どのようにして始まったのだったか? ヒは順を追って思い出す。
初めに獣がいた。風景を横に断ち切るようにして広がる胴体があった。がっしりとした太い首の先に縦に間延びした顔があった。空に向かって突き立つ耳があった。聞くべき音はすべて天上からのみ降ってくるとでもいうかのように、体の頂点に取り付けられたその尖った耳の下に暗い眼がありそれは夜の全体を丸めてたまたま眼の形にしておいたみたいに果てしのない色をしていた。胴から顔にかけての半身がたとえば森林の中の太い一本の樹木の幹なのだとしたら、木の立ちかたとは反対に枝に相当する細い四肢が幹を支え、その枝を軽々としかし複雑な運びによって操り駆ける獣だった。ヒにはそのように見えたので、「夜を眼にして横に倒れて走る木の獣」と名付けた。その獣はみんな土の色をして群れをなしているものだと理解していたが、日照りの長く乾燥した土地に入ってからはその限りではないことをヒは知った。色々の色の様々な様子の獣がおり、自分の目の異常を疑うほど白く発光するその獣はひとりだった。夜を眼にして横に倒れて走る発光した木の獣は群れをなさずにたったひとりで走ってきてひとりでひとりのヒを後ろから追い抜いた。ヒが何かを思う隙もなく通り過ぎた光はやがて白い点となり、視界から消え、まもなく声が聞こえ始めた。
乗れ。
「ルールが変わったことは冒頭ではっきりとアナウンスするべきだったんだ。でも五十人くらいの人間がそこにいて、十文字のことを気にしているのはわたしの他にはいなかった。いや、全員に確かめたわけではないんだ。だからこういう言い方は厳密には正しくないのだろうけれど」
彼女の目を見てそう言いながら、なんて美しい器官なのだろう、とわたしは思っている。
眼球じたいはただの見慣れた人間の器官だ。たとえば彼女の眼窩から眼球だけを取り出してテーブルの上に置いておいても、わたしはその濡れた球体にこれほど心を動かされはしなかっただろう。だからわたしが美しいと思ったのは、ただの眼球に対して彼女独自の目に美しさを与えている外縁、つまり瞼の形なのだったが、次第に彼女の目を美しくしているものは形ばかりではないように思い始める。気が付いたときにはわたしの意識は瞼の形から瞼に乗せられた色へと移行している。健康な人間の皮膚には本来存在し得ない人工的な色が、彼女の灰色の瞳を彩っていることにふと気が付く。わたしはアイシャドウを瞼に乗せたこともなければアイシャドウというものについて深く考えたこともない。そしてこれからもアイシャドウを自分の瞼に乗せる機会もなければその必要が生じる日がやってくるとも思えないが、しかし彼女の瞼を見つめているとアイシャドウについてもっと知らなくてはならなくなる。その基本的な役割のことであったり、仕組みのことであったり、歴史や種類や用法や効能のことなんかを。そんなことすらも知らないわたしが彼女の目を美しいと思うのは、やはり順序が間違っている気がしてならない。むしろ、まるっきり逆だ。①眼球②瞼③アイシャドウ、そうじゃない。①アイシャドウ②瞼③眼球、こうだ。この順番であればわたしは彼女の目を美しいと言っていい。彼女の目を愛していい。
わたしはこれまで色々な人間を愛したというか愛しているような気持ちになったりしたことがあった。その中にはアイシャドウが瞼の上に乗った人間も含まれていたと思う。大抵は女だったと思う。女だった。わたしには彼女たちが化粧をしているときの顔と、していないときの顔の違いがわかる。でもだからといって彼女たちの瞼に何が乗っていて、その何かが彼女たちの顔をどんなふうに見映え良くしているかを今まで気にしたことはなかった。それなのになぜかわたしは唐突に、よりによってこんなときに、アイシャドウのことが気になって仕方がない。
「正しくない」と彼女は言う。そしてアイシャドウの色の中に瞳を隠す。彼女の瞼に乗った細かいラメはとても複雑な光り方をして、わたしを放心状態にしてしまう。
彼女はこの部屋に入ったとき、冬の冷たい雨の降る中を歩いて来たせいで、走って来たのかもしれないがとにかく体を震わせていた。でも今ではすっかり落ち着きリラックスしている様子で、声の強張りもなくなっている。きっと温かいコーヒーを飲んだからだ。わたしも彼女と同じものを飲んでいる。これからじっくりと腹を割って重要なことを語り合えるような予感が、雨とコーヒーの深い香りとともに部屋の中に満ちている。そのときふと、もしもコーヒーという飲みものがなかったら人は重要な話などひとつもできないのではないか、とわたしは思う。重要な話をするためにコーヒーが発明されたのか、それとも先にコーヒーがあり、コーヒーが人間に重要な話をさせているのか?
どのような言葉を入力すれば、コーヒーと重要な話が発生した正確な順番を知ることができるのだろうと考えていると、
「正しくないことについてはまったく問題ない」と彼女は続ける。「正しくある必要はない。誰かがつくったセオリーのように、重要なことから先に述べようとしなくても結構。あなたが、あなたの職業倫理に反するような話し方をしても気にしない。実際以上に誠実であろうとしたり、品位を保ったりすることにエネルギーを使わないで。言葉は本来野蛮なもの。もともと野蛮な者たちが話した言葉を、野蛮さを嫌う者たちが後から整えただけのこと。
信じて、あなたには声がある。あなたの声。記憶が染みついていない声。時の裂け目から聞こえてくる声。そういう声をあなたの他に私は知らない。私たちは知らない。どこの世界にもあなたほどの人間はいない。人間はいない。
あなたのTV局の上層部はどうして誰も気付いていないの? あなたはゴールデンタイムにTVに出て、この世でもっとも重要なニュースを私たちに伝えるべき人でしょう。それについて、あなた自身はどう思っているの?」
わたしは首を左右に振る。わからない。質問の答えもわからないし、彼女がわたしを過大評価しているのか、それとも本当にわたしが特別な声の持ち主なのかもわからない。どんな言葉で検索しようとインターネット上にその答えは見つからないだろうことはわかる。
「でも一方で、私はこうも思うの」と彼女は言う。「あなたには声以外に何があるの? とても素晴らしい声をしているけれど、何を喋ってもあなたの声の中には言葉がない」
「そうなんだ」わたしは頷く。相槌ではなく、強い同意として。
「さあ、だから、早く。私が今、あなたが今、ここにいる理由を伝えて。『ルールが変わったことは冒頭ではっきりとアナウンスするべきだったんだ』? そんな自己反省よりも実況して。私たちがどうやってここまでやって来て、どうして私と、あなたが、こんなふうに話すようになったのか、実況して」
「実況?」
「そう、実況。あなたは実況をする。わかっているのでしょう? 最初から正しい実況を期待しているわけじゃない。これからあなたがする実況にはお手本も正解もない。オンエアの予定があるわけでもない。あなたはまだ私たちの言葉を覚え始めて間もない。こんなことを言ったら視聴者からクレームがくるか、私たちを不快にさせないか、そんな心配は一切しないで、何もかもを忘れて、順序も時系列もばらばら」彼女はふと何かを思い出したように瞼を開け、再び灰色の瞳を現わす。「で構わないから実況して。あなたはそれをやらなくてはいけない。それをしないことには、あなたが行きたい場所には辿り着けない。そんなに物事の順序が気になるようなら、そう、たとえば……語順は? 語順のことを考えてみたら?」
「語順?」
「語順。Word order. 今のところあなたのWord orderは問題ない。『ルールが変わったことは冒頭ではっきりとアナウンスするべきだったんだ』。それでいい。『アナウンスだった変わった冒頭ではっきりとするルール』とは言わないで、とりあえず今のところは」
彼女は何かをじっくり思案するように手を頬にあてる。ペイルブルーに塗られた爪が、灰色の瞳の真下にくる。そしてひとつに束ねていたダークブラウンの髪を解き、頭を軽く振る。甘い匂いがわたしの鼻先に漂う。羽織っていたベージュのコートを脱ぎ、座っている椅子の背もたれにかける。座面がラタンになっている、美しい曲線でできたアームチェアだ。ミヒャエルトーネットの曲木の技術を発展させてデザインされた、209という名の椅子。彼女のほうがずっと背が高いから、わたしがそこに座っているときとは部屋の景色がずいぶん変わるような気がする。フランクロイドライトがデザインしたタリアセンのオレンジ色の光が、中に着ているセーターの緑色を淡くやさしい色にしている。彼女は実に色々な色に取り囲まれている。そこにある色たちはそれぞれ独立して色づいているのではなく、色同士が相談し合って各自の色を決定しているみたいに見える。親密な者同士が彼らにしかわからないテーマで会話をしているみたいに見える。そこに知らない色が入り込む余地はない、ひそやかな色々の色々。わたしは色のことをまだじゅうぶんに知らない、少なくとも正しい順序では。
そうしてまた順序のことに気をとられ始めると、彼女はそれを見透かして、「さあ早く」と言う。まるでわたしの体を鞭で打って追い立てるみたいな言い方で。
「あなたは本当にそこにいる?」とわたしは訊く。
「いる」彼女は言う。
「あなたはそこにいて、わたしを見ている?」
「私はここにいて、あなたを見ている」
「わたしの声を聞いている?」
「聞いているから、これ以上苦しくしないで。あなたが実況をしていないとき、私は呼吸を止めている」
彼女はラメを乗せた瞼で再び目を隠し、呼吸を止める。本当はとても細く息をしているのが胸と肩の動きでわかっている。彼女たちは必要とあれば役者のように演技ができる。彼女につまらない芝居をやめさせるためにわたしは話を再開する。
「十文字のルールを知ったのは、レースの二日前の夜だった」
すると彼女のアドバイスがただの気休めではなく、とても適切なものであることをわたしは理解するようになる。正しい語順でセンテンスをつくることに意識を集中すると、たしかにとても話しやすくなるのだ。わたしは宙に散らばる言葉を手探りでたぐり寄せ、ただみずからのルールに従い、集めたものの順番を整えていく。
彼女は呼吸を始める。
わたしは実況を始める。
(続きは、文學界2023年6月号でお楽しみください)
プロフィール
九段理江(くだん・りえ)
作家。90年生まれ。『Schoolgirl』(文藝春秋)。
「文學界」2023年6月号 目次
【創作】乗代雄介「それは誠」(280枚)
地方の高校生・佐田は修学旅行で訪れた東京で同級生たちとある冒険をする。かけがえのない生の輝きをとらえる、著者の集大成!
九段理江「しをかくうま」(270枚)
乗れ。声はどこからともなく聞こえた。乗れ。過去、現在、未来へ、馬と人類の歴史を語り直す壮大な叙事詩!(*本稿)
衿さやか「泡のような きみはともだち」(2023年上半期同人雑誌優秀作)
【鼎談】多和田葉子×関口裕昭×松永美穂「文学と文学研究の境界を越える————『パウル・ツェランと中国の天使』をめぐって」
【批評 村上春樹『街とその不確かな壁』を読む】上田岳弘「継承とリライト」
【特別寄稿】筒井康隆「老耄よりの忠告」
【巻頭表現】山崎聡子「葬列」
【エセー】中山弘明「「島崎藤村の世紀」展と雑誌「文學界」——「エディター」藤村の誕生——」/菅原百合絵「欲望と幻滅」
【コラムAuthor’s Eyes】永田紅「あの二センチが」/金川晋吾「スカートを買ってからの話」
【追悼 富岡多惠子】安藤礼二「四天王寺聖霊会の思い出」
【追悼 坂本龍一】佐々木敦「甘い復讐————坂本龍一を(個人的に)追悼する」
【強力連載陣】松浦寿輝/砂川文次/円城塔/金原ひとみ/宮本輝/西村紗知/奈倉有里/王谷晶/辻田真佐憲/藤原麻里菜/成田悠輔/平民金子/犬山紙子/柴田聡子/河野真太郎/住本麻子
【文學界図書室】宮本輝『よき時を思う』(東直子)/村上龍『ユーチューバー』(吉田大助)/古川真人『ギフトライフ』(児玉美月)
表紙画=柳智之「J.D.サリンジャー」