修学旅行から帰った翌日のしかも土曜日に学校があるのはどうかと思うけど、僕だって特別な事情がなければ風邪で寝込んでるなんて言い訳せず、ちゃんと登校したはずだ。でも今日だけじゃないんだな。僕は明日も明後日も寝込んでて、あと何十日か、事情次第じゃ何百日でもおかしくない。事情っていうのは、今始まったこれ――高校二年の東京修学旅行の思い出――をいつ書き終えるのかということだ。
例の居心地悪い自然な導入ってやつになる前に、僕の作業環境を書いておく必要がある。築五十年弱、リフォーム済みの木造建築の二階、六畳の部屋、小三以来の学習机と木製椅子。机の横のくすみきったアルミ棚には古式ゆかしい自作PCが鎮座して、ポリ塩化ビニルの透明マットが敷かれた机の上はモニターとキーボードにマウスを置いたらほとんどいっぱい。モニターはともかく、キーボードなんか県道沿いの古めかしいリサイクルショップの箱から引っ張り出した時点で相当な年季もので、ストロークは海より深く、ラバーカップは山より硬い。雪原を歩くのに似ていながら、それにしてはキャップがカチャカチャやかましいし、その印字も真ん中に焼夷弾を落とされたみたいに剥げまくりだ。何一つまともに読み取れない灰色の足場の一つ一つを、僕の頭に浮かんだ通りに指で踏み分ける。ためらいみたいな抵抗を湛えた一歩一歩が、古めかしいPS/2コネクタから変換アダプタを経てUSBから入力されて、ディスプレイ上に文字として表示される。耳は所構わず唾を吐くみたいな打鍵音を聞きながら、目は心が思うより少し遅れる文字が牛の涎みたいにつながっていくのをただ見ている。その上この、おかしなほどの無感覚。苦しみながら書いたとか楽しんで書けたとかはみんな噓で、そいつがリウマチ持ちだったりさっき包丁で指を切ったり報酬系に電極が埋め込まれたりしてない限り、書くことはただひたすらに無感覚だ。
涎を改行できるのは幸いだ。少なくともそこで一度口を閉じる時間がつくられる。こうして矢も楯もたまらず始めた時には忘れがちだけど、涎だって無限に湧き出てくるわけじゃない。今、少なくとも乾きは感じていない僕の内面には、切実な反射と軽薄な条件反射が跋扈して何かを消化しようとうずうずしている。涎じゃ分解がせいぜいだとしても、その丸くとろい矛先があの修学旅行に向けられているのは確かだ。あの修学旅行で取り込まれた水分が体から抜けないうちに、急ぎあの修学旅行のことを、潤沢な涎でもってだらだら書き上げなきゃいけない。舌の根も乾かぬうちにってことじゃなければ、あの日のことは一生わからないままだろう。そんなのはごめんだから、こうして学校行く間も惜しんで書き始めたわけだ。それに、教室に入って彼らと一言二言交わそうもんなら、僕はもう修学旅行について書く気なんかなくしてしまうに決まってる。その瞬間に予期する甘酸っぱい未来は、僕に生唾を飲み込ませるはずだ。僕は固い意志をもってそれを拒み、こうして一人、涎を垂らし続けることを自分に強いる。画面の上にべたべたの、二度と行かない宝の地図ができれば上出来だ。
ここまで来ればもう、自然な導入とやらには首尾よく失敗しているだろう。たかが知れてる失敗だけど、ひとまずは気後れしないで始められるはずだ。
さあ、どこからやろう。僕は平凡な高校生だけど、平凡とは言い難いぐらいに特筆すべき人間関係がないばかりか、禁欲的で自罰的つまり模範的な学校生活を過ごしてきた。おかげでそんなに遡らずに済むのは確かだ。なのにさんざん迂回するのは、生い立ちに引け目を感じているからかも知れない。つまり、世間一般に比べれば複雑には違いない家庭環境まで遡る必要があるんじゃないかというわけだ。でも僕は、それについて特筆するほどの生きづらさを感じちゃいない。そいつが例の防衛機制の賜物だとしても、誰かが当代の期待の地平に描かれた足型の上に立って主題や教訓や物足りない点を見出さんとするなら、僕は兵器部長に伝手がないのを心底残念に思うことだろう。隙あらばこうやって付け焼き刃の文学知識で誰かの目を切りつけようとする以外に能のない僕だけど、それでもいつも、もっとマシなことを考えたいと願っているのは本当だ。マシっていうのはちょっと上手く言えないけど、こうして前後不覚の雪ん中を必死で進んでるような時に、あのヴァルザーの帽子を見逃さないようにしなきゃって気を張ってるみたいなことだ。ああ、雪の上にひっくり返って落ちたあの帽子だよ。あれは好きな帽子だった。あれはエベレストのグリーンブーツとは全然ちがって、僕の進む道の正しさを証明するようなものではなくむしろ逆、ということはそれ故に――まあいいや、どの道、僕の進む道には誰もいない。ただ風が吹いている。それも、懐かしく薫りながら僕の背中を押す暖かい追い風が、まるでそこから僕を遠ざけようとするみたいに。
忘れないようにもう一度、自らについて、特筆すべき人間関係なしと認めておこう。友達は俺と僕と私だけ。そんな人間は死ぬ時に何を思うんだろう。それとも、死ぬまでそんな考えでいるのって、とんでもなく難しいことだったりして。
さあ本当にもういい加減、修学旅行のことだ。ひとまず班分けまで遡ってみるのがいいと思う。でも、班分けは僕が休んでるうちに終わってたんだ。僕だってのべつ幕なし休むというわけじゃないけど、ここぞという時には簡単に休むんだ。
あの日の朝、学校にかけた電話はよく覚えてる。三コール目で、A組の副担任の高村先生が出た。二十代半ばの女の先生で、細くて美人で朗らかだから男女問わず生徒から人気があって――人気というか、妬み嫉みがない限り誰も抗えないと言った方が正しい。休みの連絡を入れるといつもこの高村先生が出る。一番若いからそういう役回りを押しつけられてるのか買って出てるのか知らないけど、みじめな感じはしない。よっぽどのこと以外は事前に準備ができていれば耐えられるって諦めを、自ら颯爽と纏ってる感じなんだな。そうでなきゃ、細くて美人で朗らかでなんていられないと思うんだ。この類いの偏見は僕の学校でもまだまだ猛威を振るってるんで、先生の人気も安泰というわけだ。そんな先生の、舌を噛み切っちゃいそうな学校名を含んだよそ行きの声を聞けるだけで儲けもんだと思いながら、組と名を名乗り、体調不良で休む旨を告げる。
「またか」と先生は感じよく言った。「電話友達みたいになってきたな」言い方悪いけど、いわゆる男っぽい言葉遣いをするんだ。電話友達って語彙もちょっと古くさいし。
それで、みんなにそうしてるのか常連の僕だからそうなのか、明るい声で病状を訊いてくる。毎回、深刻にされるより百倍いい。
僕の方では熱だ咳だとテキトー並べて「今から病院行く予定です」とか言って、さっさと話を切り上げにかかる。
「今、おじいさまかおばあさまは?」
いつもはここで替わってもらうんだけど、その日は急遽休むことにしたから誰もいなかった。「二人とも畑に行ってます」と正直に言った。自分の一番言いたいことが嘘偽り無しに本当だっていうのは素晴らしいことだ。
「それって今、呼んだりできる?」
保護者の確認が欲しいんだろうけど、どうも家の隣近所に畑があるとでも思ってるらしい。僕はこれも正直に教えてあげた。
「車で十五分くらいかかるので」
「車で十五分」心の底から意外という声だった。「そんなにかかるの」
「かかりますね」こう得意げになってくると、正直も考え物だ。
「そうか」急に素っ気ない返事のあと「じゃあいっか、大丈夫」とさっぱり言ったところで、そこにある伝言板か何かに目を留めたらしい。「あ、ちょっと待って」と無防備に声が張られた。「今日、C組は修学旅行の班分けがあるみたいだけど」
「はい」と平静に答え、向こうが何か慮る前に付け加える。「足りてないとこに入れてもらうよう、名取先生に伝えてください」
「いいの?」特に驚く様子もなく先生は言った。「それで」
「はい」
少しの沈黙の後「かっこいいねえ」と感心するような声。
言葉に詰まって、僕は思わず電話を切っちゃった。まずいと思ったけど、どうしようもない。気づけば高鳴っている胸。細くて美人で朗らかな都会育ちの先生を前にした田舎育ちの高校生なんて、乾燥剤程度の文学知識を頭に忍ばせてたところでその程度のもんだ。
そんなこと書いてるうちに、もう日付が変わろうとしている。そろそろ寝ないと。でも僕は、夜更けに洗面所へ下りていくのがあんまり好きじゃないんだ。氷みたいに冷たい廊下でじいさんの猛烈ないびきを聞くことになるから。
班分けの翌日、学校に行っても誰も何にも言って来やしない。担任の名取でさえ僕の顔見て何も言わなかったのはさすがにどうかと思うけど、僕がその程度の生徒だというせいもある。つまり、どこの班に入れてもらっても構わないって発言が「かっこいい」権利の放棄に見えるかは、日頃の振舞い次第というわけだ。僕の場合、班分けの現場に立ち会ったところでどうせ足りてないとこに入れてもらうだけなんだから、実際のところは何の権利も放棄してないことになる。
ただ言っておくけど、それがいやで休んだわけじゃない。休んだのは『東京からきた女の子』って長崎源之助の本のせいだ。いじらしいもので、修学旅行が近づいてくると図書館の除籍本コーナーでそういう児童書が目についたりするんだけど、その本の中で、転入して来ていきなりガキ大将みたいなのと大ゲンカした女の子が「べんきょうするきになれません」って早退して、次の日も学校を休んじゃう。僕はそれが気に入ったんだ。
それで昼休みになって、僕の席に大日向が来たんだ。弁当片手にどこかへ行く前に事務的な用事をふっと思い出して寄りましたって感じだった。より正確に言うなら、そういう感じをしっかり出そうって感じだった。けなすつもりはない。そういうのって、自尊心より親切心だから。
「佐田くんさ」と目を合わせたまま大日向は言った。困ったことに僕はそんな名字なんだ。こう書いてる今も他人みたいな気がするけど、にしても、わざわざの呼びかけに親しみのなさを感じるじゃないか。「修学旅行、同じ班だからよろしく」とだけ言って、返事も聞かずに教室を出て行った。
行く末を案じないこともなかった。この大日向ってのはいけすかない人間では全然ないけど、流行らないにしても亡きものではないスクールカーストってやつでいうと、かなり上の方に属するタイプなんだ。彼が組みそうな同じサッカー部のいけすかない奴らが三人ほど思い浮かんだ。その数合わせに人畜無害の中性子が駆り出されたんじゃないかってのは、容易に察しのつくことだ。
ところが、結論からいうと拍子抜けだった。総合の授業が修学旅行のことにあてられたんだけど、大日向が向かう方にいる面々は、想像とはだいぶ違っていた。一人ずつ紹介するのは気が遠くなるし、いいものがあるからそれで済ませよう。
あの時はまず、修学旅行のしおりが配られた。昨日帰ってきたところだから――一部は破り取られてるけど――今も手元にある。日程とか持ち物とか、最低限の大事なことだけ書かれたやつだ。ホテルでの過ごし方とかはまた後で色々と配られて、いかにも地方都市の小金のある私立校って感じでポケット式のファイルに全部まとめるようになっていた。
しおりの裏表紙裏には班員名簿欄がある。一番上の班番号を書く欄に、教えてもらって〈3〉と入れた。その下に横長の欄が七つ並んでて、一番上には「班長」、二番目に「副班長」と添え書きされている。名取は、各々のしおりを班内で回して名前を自筆するように指示した。班長でも副班長でもないなら、自分の名前は一番下に書けとかなんとか古臭いこと言ってた。指示から五分、僕が自分の名前を班員のそれぞれのしおりに書く間に、筆跡の異なる班員の名前が並んだ自分のしおりも戻ってきた。上から順番通りに打ち込んでみよう。
井上奈緒
蔵並研吾
大日向隼人
松帆一郎
畠中結衣
小川楓
佐田誠
わからないだろうけど、妙なメンバーだ。そしてこれまたわからないだろうけど、それぞれの名前と筆跡は、目に入れるだけで僕の感傷を大いにそそってきやがる。僕がこれから書いていくことから、君が彼らの筆跡が想像できるといい。実際の筆跡と合致するかどうかは大した問題じゃなくて、どうせ目にすることはない僕の修学旅行のしおりの裏表紙をめくったとこに並んでる七つの筆跡について、君が想像するってことが重要なんだ。『東京からきた女の子』にも「しんのとがったえんぴつで、小さくかわいい字をかくだろう」ってとこがあった。これは余談だけど、名前の横には僕が書いたそれぞれの携帯番号までくっついてる。ここに電話をかければ、僕は今すぐにでも彼らと話ができるかも知れない。
しおりのことが片付くと、残りは東京での自由行動の計画を班ごとで相談する時間にあてられた。各班にタブレット一台が渡されたけど、自主性とやらを重んじる我が校は通常授業の最中じゃなきゃスマホも自由に使えるから、そんなに重宝するってわけでもない。
三班は、各自で行きたい場所をリストアップするところから始めた。女子三人は椅子を並べてタブレットを使い、男子がそれを取り巻くようにただ座っていた。とりあえず僕に関していえば、絶妙な距離感というものがあったな。つまり、近づくのもなんだが、わざわざ離れていると思われるのはもっとなんだなというような。
「ねえ」と井上が急に顔を上げて、男子の方に言った。「ディズニー行くのってどう?」
「は?」大日向がいち早く笑って答える。「次の日、行くだろ」
三泊四日の修学旅行、三日目は全体で東京ディズニーリゾートへ行くことになっている。自由行動は二日目だ。ホテルを午前九時半に出発して、午後五時までに戻ってくればいい。
「べつに二日連続で行ったってよくない? 二日で制覇すれば」
真面目な顔で答えられて、大日向はスマホをポケットにしまった。他の頓馬な男子も、それで何となくおおっぴらに井上を見ることができた。
「本気で言ってたのかよ」
「ホテルの隣の駅なんでしょ? 交通費もかかんないし、おみやげ代含めて一万円なら満喫できるし」
「多少は勉強っぽいとこじゃなきゃ通んないって。社会見学としてとか、さっき先生がそんなこと言ってただろ」
「見た目のわりに真面目だよね、大日向くんって」
大日向のたしなめる調子が癇にさわったみたいに口を出したのは、井上の隣にいた小川楓だ。顔は上げずに、か細い小指のへりでタブレットを操作し続けている。
「むしろ誇らしいから、そういうの」
そつなく返す大日向に僕はちょっと感心していた。今後の会話のほとんどは彼を経由することになるけど、これは別に、複数人の会話を描写する能に欠けた語り手の苦肉の策じゃなく、実際そうだったからだ。まあ、能があるかは知らないけど。
「蔵並くんが言うならわかるけどさ」
小川楓の言葉に蔵並本人も反応しかけたが、井上の大きな声が遮った。
「え、じゃあディズニーは無理ってこと?」
「ホントに本気だったんだ?」小川楓が鼻で笑いながらようやく顔を上げた。「たぶんっていうか、ぜったい無理よ」
隣で畠中さんが笑ってうなずく。人の良さそうな彼女はなんて言っていいのか、少し、いや結構かな、まあかなりというわけでもない、ふくよかな方で、持ち上がった頬で目尻がなんとも窮屈そうだった――やっぱり能があるとは言えそうにない。
「そうなの」井上は口惜しそうに言った。「え、じゃあ何だったん、今のこの時間」
「さあ?」と小川楓はなんとなくの笑顔のまま首をかしげた。「二日連続ディズニーの夢を見る班長の、班長による、班長の――」
井上は両の頬を手で覆うようにして、えーともあーともつかない長い声を出してから「ちゃんとしたい」と言った。「ちゃんとしよ」
「そう、ちゃんとしようぜ」と大日向も言った。「みんなで話し合いしてさ。ちゃんと男女こみで」
「あ、でも、あと三分だ」手を頬に置いたまま教室の時計を見上げた井上の目は、嬉しげな弓なりになった。呆れている大日向と目が合って「じゃあ、じゃあさ」と取り繕う。「明後日もロングホームルームで時間とるって言ってたから、その時にすり合わせればいいんじゃない? みんな、一人一個、行きたい場所を考えてくるのは? コレ、絶対で。考えてこなかったら、その人の希望は検討しません。これは班長命令です。よろしいですか」
「急に班長らしくなった」タブレットをいじって何も見ていない小川楓は不思議そうだった。「なんで?」
「ほんとにちゃんとするって決めた。誰にも容赦せん、楓にもな」
「そんな」小川楓は笑いながらタブレットを放すと、時計を見上げながら伸びをした。
「それでいいよ」と僕は言った。しゃべれる時にしゃべっておこうという魂胆だ。
「なんか、条件は?」蔵並が僕よりもまともなことを訊いた。「費用とか、範囲とか」
「うーん、とりあえず自由。最初から制限あって候補に出せなかったらもったいないから」
「確かに」と蔵並がうなずく。
その低い声を「確かに」と小川楓が真似た。蔵並は驚くような照れたような顔でそっちを見た。
「いや」小川楓は笑みを返した。「勉強できる人の「確かに」は重みがあるなって」と言ってひらひら手を振る。「気にしないで」
「けど、常識の範囲内で――」そこで井上は一番遠くに目をやり「松くんは?」と訊いた。「それでいい? 聞いてた? 明後日までに自分が行きたいとこ決めてきてね」
窓の外をぼうっと見ていた松は、荒れ気味で粉をふいた腫れぼったいまぶたを持ち上げながら井上を見た。それから少し笑うみたいに口を開けた。覗いた舌先が引っ込むと同時に「い、い、い」とどもり、それをぐっと呑み込むようにしたあと「だ、大丈夫」と言った。
せっかく班長がそう決めたのに、その日の最後の授業、現代社会の終わり三十分でも同じような時間が取られた。必修科目でクラス全員いるし、担当がクラス担任の名取だから、そういう帳尻合わせができるんだ。
みんな一応、班ごとに集まってはいたけど、仲の良いのが首尾よく固まれたわけでもないらしく、先生がいなくなるとばらけて、あんまり真面目に相談をするような雰囲気じゃなかった。三班はまた井上の席がある窓際の後方――総合の時もそこに集まっていた――に全員が固まったけど、さっきああ言った手前、特にすることもなかった。井上と小川楓の会話に畠中さんが交ざって、蔵並は自分の席から持参した現代社会の予習だか復習だかをやってた。松はその後ろで、いつものように窓の外を見るかなんかしていた。まあ、僕も含めて男子は大体そういう奴らなんだ。頼みの綱の大日向は、先生が出て行くのと同時に平気でトイレに行ったらしい。しばらくしてハンカチをズボンの後ろポケットに押し込みながら戻ってくると、自然に椅子を引っ張ってきて女子たちと男子どもの間に陣取った。賢明な奴だ。
「バンッ」
井上が息の多い声を発しながらピストルに見立てた手を跳ね上げると、小川楓が顔を横向きに机の上に伏せって目を閉じた。
「よーしよしよし、またできたじゃん、すごいじゃん」
井上は大袈裟に声をかけながらその頭をがしがし撫でている。二人はそれをさっきから何度か繰り返してて、僕らはその横で勉強したり外見たり座ってたりしてたんだ。ところが大日向は役者が違う、椅子の背もたれに肘をのせた体勢で、好意的な笑みを浮かべながら言った。
「二人はそれ、何やってんの?」
「ロンのマネ」井上が小川楓の頭を撫でる手を止めて答える。
「ロン?」
「うちの犬」と気分を害したように言った。「井上ロン、三歳。オスのケアーンテリア」
「へえ」大日向はいかにも興味を引かれましたって声を出した。「芸すんの?」
「まだしない、仕込んでるとこ。ていうか今日から仕込み始める予定。ツイッターで見たらやりたくなったんだよね」
「これはその練習」小川楓が机に片頬をつぶしたまま言う。「奈緒ちゃんの」
「飼い主の練習?」大日向は納得いかないという顔で訊いた。「小川が、その、ロン? やったって意味ないじゃん」
ちょっと面白そうな話に聞き耳を立てつつ気になったのは、ケアーンテリアと、あとは大日向の呼び捨てについて――つまりどういう了見かってことだ。僕が小川楓のことだけわざわざフルネームで書いてるぐらいは、いくらボンクラでも気付くはずじゃないか。ボンクラってのは言い過ぎた。でもじゃあ他のこと、例えば今の、了見と猟犬がかかっているのはどうだろう。だいぶ前だけど、マシとmercyは? 僕は自分の切実な思いを伝えるために言葉を使ったことなんて一度もない気がする。
「意味ある」井上は間髪入れずに――と書くには間が空きすぎたけど――否定した。「意外とリアルで、最初は全然やってくんなかったし。明日になったらやってくれるかわかんないし、いい練習」
井上は証拠を見せてやると言わんばかりに姿勢を正すと、話のうちに起き上がってきた小川楓の眉間に銃口を突きつけるようにして、また「バンッ」と人差し指を跳ね上げた。小川楓は、今度はのろのろ死んだフリをした。「やっとここまでしつけたんだから」
飼い主が誇る間に、肩から下でちょっとウェーブのかかり始める小川楓の長い髪が、机から少しずつ流れ落ちる。
大日向はその髪を目で追いながら「小川の」とつぶやいた。「さじ加減じゃん」
「指はもっと顔から離した方がいい」とこれは僕の助言。「なんか怖いから」
畠中さんが心から同意するという風に強くうなずいて、井上がちょっと笑った。鼻の上に細かな横じわを走らせる感じで笑うんだ。
「その芸って」と大日向が訊いた。「誰でもやんの?」
「あー」ぼんやり開けた口で考えてから、井上は小川楓の頭を見下ろした。「どうかな、あたし限定かも。飼い主なので」
そんなの聞こえていないか理解していないような犬の振りで、小川楓はおもむろに体を起こした。目をつむったままだるそうに首を傾けると、コキッと軽い音が鳴った。
そこへ突然、大日向が「バンッ」とやったんだ。
そりゃ会話の流れとしてはわかるけど、なかなか大胆なことをするもんだ。会話の潮目が変わって、何かが始まりそうな予感がした。
小川楓は興味なさそうに、片方だけを細めた冷たい目で見つめるだけだった。涙袋がすごく際立っていた。
「これ、犬としてか?」大日向は困惑して井上に助けを求めた。「なんかマジで怒ってない?」
「ケアーンテリアは飼い主に忠実な犬」井上はまた誇らしげに言うと、他の班員の方を見て「次は?」と言った。
他の奴にもやらせる気なんだ。別にことさら意識して交流を深めようってわけじゃないんだろうけど、こういうことをごく自然にやれるんだ。ごく自然にって言えるのは、この時の僕は、この会話が班にもたらしうるものについて何とも思ってなかったからだ。ただ、クラスのボンクラとして、何かが始まりそうな予感がしただけなんだ。いや、事実の通りにもっとボンクラ風に言うと、僕はただそういう予感を感じてただけなんだよ。
「ぼぼ、ぼぼぼぼくも」と松が遠くから手を上げて言った。「や、やってみていい?」
井上はそっちを向いて「え?」と割にはっきり言ったけど、すぐに「いいよ」と微笑みかけた。
「バン!」松はすぐさま撃ち込んだ。間もへったくれもなく遠くから、ずいぶん楽しそうに。
擬音じゃ吃音は出ないらしいって、これはその時に思った。あとは機関銃だとどうなるんだろうとか。思ったんだからしょうがない。僕は自分の考えがどんなに下劣で悍ましかろうと傷ついたり恥じ入ったりしたことはない。愉快なことや高尚なことを考えて満たされたり誇らしかったりしたこともない。休むに似たりの言葉遊びが自己評価じみた感情に働きかけるなんて信じられない。書くのもそうだ。だって、自分のために書くなら考えるのと一緒じゃないか。
井上ロンもとい小川楓は迷う素振りもなく、ふいと窓の外を向いた。
松は本気で残念そうだった。「ぼ、ぼぼぼぼくのうち、ね、ねねね猫飼ってるから」
「あ、そういう問題?」井上はちょっとした保母さん調になった。笑顔も言い方も、相手にわからないところでちょっとあしらうような感じ。
「なんて名前?」と畠中さんが訊いた。「松くん家の猫」
「リーフィア」
「ポケモンかよ」勉強の手を止めずに蔵並が言った。思わず口をついただけらしく、顔は上げず、二の句もなかった。
「そうなの?」と畠中さんが二人の顔を見比べる。
「うん」と松は嬉しそうにうなずいた。「ポケモンからつけた」
「変わってるな」
蔵並がそんなことを言うから言葉が続かず、場は大人しくなる。なにしろ松は変わっていて、その変わり方がどういうものか同級生も承知してるんだから。こんな進学校に入るためには邪魔にならない程度の、だからこそ厄介な、気遣い方しだいでこっちの気分が損なわれてしまうような変わり方だ。これは思うだけじゃなく、実際、言っちゃったりやっちゃったりするもんだから始末が悪い。
だから何人かが「まあ」と曖昧な相づちを打った。打たない奴が少なければ、誰かがそこに加わればいい。多すぎたら、それとなく否定やフォローを入れればいい。こっちだって松だって無用に傷つく必要などないんだから、そのバランスを保っておけば問題ないというわけだ。
「そうか?」と大日向は言った。
首をかしげる松の方を蔵並は見もしない。でもノートの上のシャーペンの軸だけそっちに向けた。「ポケモンの世界でリーフィアって、それこそ犬みたいな種類の名前じゃないか。それをつけるのって変じゃないかっていう、ただの疑問」
「でも、と、とととと隣の家の犬の名前は、き、きなこで、食べ物の種類だよ」
裏表のないぶん早い返事は蔵並の虚を突いた。時間があれば反論の仕方もあっただろうけど、蔵並は黙っちゃって、それを遠くの犬が笑った。脱力した小川楓の体が、軽い笑いに為すがままに揺すぶられて、髪も左右に揺れていた。しばらく見ていたけど、一向に笑いやまない。
「撃て、撃て」と大日向が蔵並に囁いた。耳打ちっていうより、それをみんなに聞かせるって感じだった。機を見るに敏なんだ。
蔵並はつい戸惑いつつも手でピストルを作った。声は出さないで銃口を跳ね上げて撃つフリをした。小川楓は笑ったまま井上を見て、またさらに笑いを大きくした。井上は小川の頭を撫でて、蔵並に軽く頭を下げた。
「次、佐田」と大日向が僕を見た。「今んとこ全員失敗」
呼び捨てにされたけど、鮮やかな手口で怒る気にもならない。実際、そんなことは考えもしなかった。僕はこのキーボードの上で考えるのに慣れすぎて、現実で事が起こるあの速度に頭や言葉がおっつかないんだ。
「がんばって、佐田くん」と井上が言った。
仕方なく、小川楓に向かって構える。小さく前へならえしたような僕の気恥ずかしさを見過ごし、微笑んで待ち受けている――ように見えた。銃の内部、掌の柔らかいところに自分の薬指が触れ、背に震えがこみ上げた。それさえ見透かすように僕を見つめる、犬をマネているとはとても思えない目。動かすことのできない視線を突然、たどたどしい声が横切った。
「く、くく蔵並くん、ポ、ポポポポケモン好きなの?」
おかげで我に返ったけど、勘弁してほしいもんだ。けど、言ってどうなるもんじゃない。幸い蔵並は黙ってた。こっちの流れを優先したのか、答えたくなかったのかわからないけど、みんなもそれに倣った。後は僕がさっさと済ませるだけだ。
「バン」
小川楓はふいにそっぽを向くと、心なしかゆっくりと倒れて、誰もいない方へ顔を倒して机に伏した。
「できた!」畠中さんだけ本気で喜び、胸元で小さい拍手までしてみせた。「すごい」
「やっぱさじ加減じゃん」
大日向の冷めた笑いをかき消すように、井上は「かしこいかしこい、かしこいねー」とふざけた甘い声を出して、小川楓に覆い被さるように身を寄せると、髪を強くかき回した。「やらなきゃ終わんないもんねー」
「そういうこと言ってやるなよ」大日向は僕を見ないで言った。
小川楓は顔を下げたまま机を離れて、隣の井上の背中に腕を回し、鳩尾のあたりにすがりついた。乱されてアーチを浮かせた色素の薄い細い髪が、窓から斜めに差す午後の光を透かしている。僕はそこから目を離せないでいた。
その時、勢いよく開いた教室の引き戸が枠を叩くすごい音がした。クラス中が一斉にそっちを向くと、半分顔を出した名取の元に、戸がゆっくり返っていくところだ。タブレットの入ったカゴを持ってたんで止められなかったらしく、そのあとずっと平謝りしてた。
向き直ると、小川楓は井上の懐にもぐりこんだままだった。横髪のわずかな隙間から何回か、瞬きともいえない緩慢な目の閉じたり開いたりが見えた。その瞳は、セーターに睫毛が触れるほどの間近で、潤むような光を放っていた。宿っている情を読み取るのは簡単だった――退屈。喜びや怒り、哀しみにふれた時と何ら変わりなく、退屈を漲らせてさえ小川楓の瞳は輝いていた。
(続きは、文學界2023年6月号でお楽しみください)
プロフィール
乗代雄介(のりしろ・ゆうすけ)
作家。86年生まれ。『パパイヤ・ママイヤ』(小学館)。
「文學界」2023年6月号 目次
【創作】乗代雄介「それは誠」(280枚)
地方の高校生・佐田は修学旅行で訪れた東京で同級生たちとある冒険をする。かけがえのない生の輝きをとらえる、著者の集大成!(*本稿)
九段理江「しをかくうま」(270枚)
乗れ。声はどこからともなく聞こえた。乗れ。過去、現在、未来へ、馬と人類の歴史を語り直す壮大な叙事詩!
衿さやか「泡のような きみはともだち」(2023年上半期同人雑誌優秀作)
【鼎談】多和田葉子×関口裕昭×松永美穂「文学と文学研究の境界を越える————『パウル・ツェランと中国の天使』をめぐって」
【批評 村上春樹『街とその不確かな壁』を読む】上田岳弘「継承とリライト」
【特別寄稿】筒井康隆「老耄よりの忠告」
【巻頭表現】山崎聡子「葬列」
【エセー】中山弘明「「島崎藤村の世紀」展と雑誌「文學界」——「エディター」藤村の誕生——」/菅原百合絵「欲望と幻滅」
【コラムAuthor’s Eyes】永田紅「あの二センチが」/金川晋吾「スカートを買ってからの話」
【追悼 富岡多惠子】安藤礼二「四天王寺聖霊会の思い出」
【追悼 坂本龍一】佐々木敦「甘い復讐————坂本龍一を(個人的に)追悼する」
【強力連載陣】松浦寿輝/砂川文次/円城塔/金原ひとみ/宮本輝/西村紗知/奈倉有里/王谷晶/辻田真佐憲/藤原麻里菜/成田悠輔/平民金子/犬山紙子/柴田聡子/河野真太郎/住本麻子
【文學界図書室】宮本輝『よき時を思う』(東直子)/村上龍『ユーチューバー』(吉田大助)/古川真人『ギフトライフ』(児玉美月)
表紙画=柳智之「J.D.サリンジャー」
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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