コラム・エッセイ

この季節に病を得る、ということ

篠田 節子

#あしたを読む #言葉で元気に #コロナで思うこと

 大量の衣類を担いで市域外れにある病院に赴き母と面会し、汚れ物を持ち帰り風呂場で洗濯する。付着した汚物をブラシで落とし、消毒したのちに洗濯機に入れる。手足を洗い、洗濯機の回る音を聞きながらコーヒーでおやつタイム、というのが習慣になっていた。認知症病棟に入院している母は、老衰のために腸の機能が落ちて便失禁が増えた。食欲はあるがどんどん痩せてきて、車椅子から立たせようとすると固い骨が掌に触るようになっている。それでも元気で辛さを訴えることもない。

 汚れも臭いも生きている証拠、仕事を中断して病院に行くのは正直負担だが、それも生きているうちのことで、諸々のことが突然終わり、投げ出されるように解放される日は、それなりに悲嘆の感情も伴うであろうと覚悟を決めてもいた。

 ところが……。

 二月も下旬に入った日曜日、スマホに病院から電話がかかってきた。

「新型コロナウィルスの感染防止のため、しばらく面会は禁止となります」

 やった、とその瞬間、心の内で喝采していた。洗濯についてはウィルス持ち込み防止のためにリースに切り替える。午後いっぱいを潰しての病院往復と洗濯から完全に解放される。しかも母親は生きている。

 クルーズ船での大量感染が話題になり、国内でも感染者は出ていたが、どこか対岸の火事という感じの時期でもあった。

 こんな臨時休みもせいぜい二、三週間と踏んだから、翌日にはさっそくチェロを担いで友人たちとの合奏練習に参加。その後の飲み会にも顔を出した。

 居酒屋の生ビールが、その日はなぜか半額で、喜んでおかわりするうちに寒くなってきた。コートを着込んでピザなど食べていると、手洗いから戻ってきた仲間の一人がささやいた。「客、うちだけだぜ」

 寒いはずだ。チェーン系大型居酒屋の他の個室のどこにも客の姿はなかった。


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