- 2024.02.20
- 書評
結婚は解放だった……自由に鋭利な男女観を綴った大庭みな子
文:遠藤 郁子 (石巻専修大学教授)
『精選女性随筆集 宇野千代 大庭みな子』(宇野千代 大庭みな子 小池 真理子 選)
大庭みな子は三七歳の時に『三匹の蟹』(「群像」昭四三・六)で第五九回芥川賞を受賞し、小説家として華々しいデビューを飾った。受賞当時は、夫の赴任先であるアラスカに住んでいたが、昭和四五(一九七〇)年に日本に帰国し、本格的に執筆活動を開始した。その後、小説だけでなく随筆も精力的に執筆し、アラスカから日本に帰国する前後の様子を語った第一随筆集『魚の泪(なみだ)』(中央公論社、昭四六・四)以降、晩年に至るまで、数多くの随筆集を残している。
彼女の小説世界は、思い通りにならない現実に苛立ち、互いの関係性が築けずに葛藤し、すれ違う、無数の夫婦や恋人、親子の声に満たされている。様々な声の響き合いで築き上げられた多声的で幻想的な空間が作り出されることで、立体感をもった小説世界が展開されていく面白さがある。随筆にもそうした創作の流れを汲んだ幻想的なものや構成的なものがあり、創作との境界線を曖昧にして越境する独特の世界観を楽しめるものがある。本書の「I 結婚は解放だった」に収められた「青い鳥」などはまさにそうした好例だろう。
その一方で、自身の生活や思想について歯切れの良い口調で明晰に綴られた随筆も多い。それらの随筆では、ときに挑発的に、ときにユーモアを交えて、刺激的な男女観、家族観、文学観が率直に語られる。そこには小説とは異なるストレートさと力強さが宿っている。「幸福な夫婦」などはそうした随筆の代表と言っていい。日本の離婚率が徐々に上昇傾向に転じ始めた一九六〇年代以降を時代背景として、「幸福な結婚とはいつでも離婚できる状態でありながら、離婚したくない状態である」と述べている。ここには、既存の制度や価値観に縛られずに男女が自由に惹かれあうことを自然視する、大庭みな子の思想がよく表われている。
「男と女」でも「世界の人口の男女の比率はほぼ同数で、現存する結婚制度が合理的か不合理かということは別問題としても、男と女がお互いに相手のことを考えなければ人生は成り立たない」と主張されるが、それは単純な異性愛主義とは異なるものだ。大庭文学は、自然の摂理を重視する『老子』の思想を内面化しながら、異質なもの同士がつながりあった先にある〈共生〉を一貫して志向しており、随筆でもその姿勢が貫かれている。
みな子は昭和三〇(一九五五)年に二五歳で大庭利雄と結婚した。〈小説を書き続けること〉が結婚の条件だったという。「結婚は私にとって大変な解放でした」(「孫悟空」)と言えるほどに、彼女の結婚は自由で満たされたものだったが、そう振り返る余裕を彼女が実際に持ち得たのは、小説家デビューを果たしてからのことである。
みな子は結婚の翌年に一子を儲け、昭和三四(一九五九)年に夫の勤務のためアラスカに移住し、小説家としてデビューするまで一〇年余りをその地で過ごした。いわゆる駐在〈妻〉として、また幼い娘の〈母〉としてあった、文学的な交流もほとんど持てずにいた当時のことを、彼女は「その頃、わたしは自分を流刑地に閉じこめられた囚人のように感じていた」(「著者から読者へ」『三匹の蟹』講談社文芸文庫、平四・五)と振り返っている。この葛藤と閉塞感の記憶が、「II 生命(いのち)を育てる」にあるように、「母性愛」に過剰な意味を付加しようとする世の傾向を牽制し、女性の多様な生き方を狭めるような風潮を批判する姿勢につながっていると考えられる。
しかし、無意味な繰り返しのように感じられる日常生活こそが人間の営みなのであり(「草むしり」)、「一人の人間が生まれ、生きているということの中には、途方もない長い時間をかけてその祖先たちが繰り返し、反復して得た生きつづける力がある」(「甦るもの」)のだ。生活の「囚人」だったというこの時期があったからこそ、彼女の中には生活者たちの呟きが蓄積されてゆき、それにより「III 文学・芸術・創作」で主張されるような「文学は、生活の中にしか埋まっていない」(「創作」)という思想を獲得するまでに至ったのである。「思い出すままに」で、ナボコフやコジンスキィが自身の文学を確立する前にアメリカで自分を解放する機会を得た事実に自分自身を二重写しで見ているように、彼女が自身の文学を確立するためには、アラスカでの経験が必要不可欠であったと言える。
その後、日本に帰国し本格的に執筆活動を開始した彼女は、日本国内、国外を問わず、多くの知己を得ていく。彼女の交友関係は非常に広く、「IV 作家の肖像」に収録されているのは、その交友を示す一例だ。川端康成は、彼女が芥川賞を受賞したときに作品を高く評価して受賞を後押ししてくれた選考委員の一人であり、受賞後に交際を持つようになった。川端文学の魅力を「冷徹さ」に見るみな子の文学もまた、対象を静かに凝視し描写しきる同質の「冷徹さ」をもっている。こうした文学的共感が、二人の交流を可能にしたのだろう。
円地文子は、谷崎潤一郎賞で『寂兮寥兮(かたちもなく)』(河出書房新社、昭五七・六)を推奨した選考委員の一人で、女性作家たちの交流の場であった女流文学者会などでも親交があった。日本古典文学の素養を備えた円地との付き合いは、彼女の文学活動にさらなる広がりを与えた。野間宏との付き合いは、彼女が津田塾の学生だった時代まで遡る。一六歳の頃から小説を書き始めたというみな子は、大学に入学して間もなく、友人の紹介で野間の自宅を訪問し、以後、卒業するまでに何度も自分の原稿を持って訪ねたという。津田塾時代の文学の師とも言える存在である。また、小島信夫との親交も長く、彼の死の直前に発表された「風紋」(「群像」平一八・一〇)は、〈ラブレター〉と言われるほどに、彼に対する好意をストレートに表現している。
「V 少女時代の回想」では、大庭文学のバックボーンを確認できる。彼女は、自身の子供時代や家族との関わりなどについての随筆を多く残している。それらを語ることは、彼女にとっては、受け継がれるいのちのつながりを確認する作業として、欠かせないものだった。
さらに、大庭文学を語るうえで忘れてならないのは、彼女の原爆体験だ。昭和一九(一九四四)年、海軍軍医だった父の転勤のために広島に移住したみな子は学徒動員され、爆心地から三〇キロほどの学校工場で八月六日に広島に広がったきのこ雲を目撃した。そして、終戦後に二週間ほど、学徒救援隊として広島市内の救護所に動員され働いた。「地獄の配膳」に語られる壮絶な体験である。
津田塾時代の文芸部会誌「創造」(昭二八)に発表した小説『痣(あざ)』(「群像」平二〇・三再掲)はこの体験を下敷きに書かれ、彼女の文学活動の原点がそこにあることを物語っている。また、みな子はこの原爆の記憶から生まれた小説『浦島草』(講談社、昭五二・三)を、自身の代表作であると終生言い続けたという。彼女には「あらゆる種類のヒロシマの証人は、その記憶を語り伝えるべきだ」(「プロメテウスの犯罪」『日本人の一〇〇年15 太平洋戦争』世界文化社、昭四八・四)という信念があった。自然の摂理を曲げて押し通された人間の欲望が、いのちのつながりを一瞬にして断絶してしまう決定的な出来事を体験した彼女だからこそ、自然の摂理としてのいのちのつながりを切望し、〈共生〉を志向したのだろう。
平成八(一九九六)年にみな子は倒れて半身不随の身となり、以後、夫の献身的な介護を受けた。この晩年を夫婦は「蜜月」と表現する。この「蜜月」の果てに、みな子は「何よりも先ず最期まで共に生きられるパートナーを探しなさい、それから世界のことを考えなさい」(「共に生きる」)という言葉を遺言とした。つながりの中で〈共生〉すること、その哀しみも喜びも余すことなく享受することで、豊かな大庭文学が形成されたのだ。