- 2024.02.20
- 書評
数多の恋愛、結婚を経て……いつまでも「女」であることを愛で続けた宇野千代
文:金井 景子 (早稲田大学教授)
『精選女性随筆集 宇野千代 大庭みな子』(宇野千代 大庭みな子 小池 真理子 選)
宇野千代は、八十歳を迎えて刊行された自身の全集(一九七七~八、全十二巻、中央公論社)の最終巻の「あとがき」を、次のように結んでいる。
私は自分のことを、小説家ではなく、随筆家かと思っている、と書いたが、小説であれ、随筆であれ、確固たる哲学的思惟なしに書けるものかと言う気がする。この点で自分は、文学者として欠格かと思うと、まことに肌寒い思いがある。
「確固たる哲学的思惟」を持たない自身を「文学者として欠格」として「肌寒い」と言うネガティブな宇野千代は、今日の読者にいささか意外な感じを与えるかもしれない。宇野千代とは、最晩年の随筆集『私何だか死なないような気がするんですよ』(一九九五、海竜社)のタイトルに集約されるように、生死をも超越した天衣無縫にして融通無碍(むげ)の境地を拓いた存在として記憶されているからである。
しかしながら、はなから天衣無縫で融通無碍なひとに文学が必要なはずはない。また、百年近く生きたひとの歩みを、晩年のイメージを溯及させて解った気になるのも的外れな話であろう。宇野千代を、世間に流布する超越的な存在としての「宇野千代」像から解放するためには、「文学者」を目指しながら、結果的に唯一無二の「宇野千代」になったひととして捉え返す、何らかの工夫が必要である。
宇野千代は、一九二一年、「時事新報」の懸賞小説に応募した初めての短編「脂粉の顔」が一等当選し、文壇にデビューした。この時の筆名は、「藤村千代」――従兄である藤村忠と結婚し、北海道に暮らしていた。その三年後には、藤村忠と離婚して宇野姓に戻っていることを思うと、文学者・宇野千代のスタートが、戸籍名として宇野千代でなかったときに切られているのは興味深い。「脂粉の顔」とそれに続く「墓を発(あば)く」(一九二二・五、「中央公論」)で得た自信によって、文士として生きて行く決心をした一人の女性は、親から与えられた姓名を改めて択び直して、宇野千代になったのである。田村俊子しかり、宮本百合子しかり、近代女性作家たちの多くが、名前を択び直して文学的出発(あるいは再出発)しているのと重なることでもある。
本書の冒頭に収録された「模倣の天才」は百歳直前まで生きてしごとをし続けた宇野千代が、その三分の一の時点に位置する三十八歳の時に記した回顧録である。宇野千代は一八九七年一一月二八日に、山口県玖珂(くが)郡横山村(現・岩国市)に生まれた。二歳で生母・トモが結核によって他界したために、父・俊次は佐伯リュウと再婚した。「よよと泣かない」において言及される「二人の母」というのは、トモとリュウであり、米寿を過ぎて書かれた「風もなく散る木の葉のように」で「代々酒造りをいとなむ旧家であった家を早くから離れ、ついに定職を持たずに死んだ、放蕩無頼の父」と称されているのは俊次である。
宇野千代十四歳の折、父の決めた従兄・藤村亮一のもとに嫁入りするが十日で出戻るという体験をした。十九歳で同棲し、後に二十二歳から二十七歳まで婚姻関係にあった藤村忠は、亮一の弟である。
藤村忠と協議離婚が成立する前年から同棲していた尾崎士郎とは二十九歳から三十三歳まで正式な結婚生活を送り、尾崎と別れる直前から同棲をスタートさせていた東郷青児とは三十七歳まで同居した。東郷青児と別れることになったのは、東郷が宇野千代と知り合う直前に情死未遂事件を起こした女性と復縁したためである。
「好いおくさん」として上記の男たちと暮らしをともにしながら、「書く」ことを生業(なりわい)として択んだ宇野千代は、出会いと相手への同一化、そして別れという経過を、その時々の借り物の文体で「書く」という宿命を生きることになった。「学ぶ」の語源が「まねぶ」(真似をする)であることを思えば、「模倣の天才」とは真摯な勉強家の別称でもあるのだが、東郷青児の生と性の遍歴を聞き書きした『色ざんげ』(一九三五、中央公論社)によって宇野千代が文壇における不動の地位を得たことを思い合わせると、彼女の言う「模倣」が作風や文体のテイスト程度のものではなく、興味を持った存在にまるごと憑依(ひょうい)する、独自性に満ち満ちた語りの創出へと発展していくことも、後に明らかになる。
ちなみにこの、興味を持った存在にまるごと憑依する聞き書きの系譜に、『人形師天狗屋久吉』や『日露の戦聞書』(いずれも一九四三、文體社)といった傑作があり、また男の一人称語りによる生と性の懺悔録(ざんげろく)としては、昭和文学の不朽の名作と呼ぶに相応しい『おはん』(一九五七、中央公論社)が生み出されていく。
「『私の文学的回想記』より」の「『色ざんげ』の魅力」には、東郷青児の「君はこの話を小説にする積もりで、そのために、俺と一緒にいたのだな」という科白が記されているが、東郷はおそらくこの作品から、取材などというレベルではない、自身の存在そのものを写し取られたような凄みを感得したに違いないのである。
かつて丸谷才一は『日本の文学46 宇野千代 岡本かの子』(一九六九、中央公論社)「解説」において『人形師天狗屋久吉』や『日露の戦聞書』、『色ざんげ』、『おはん』を、語り手/男と聞き手/女との関係から編み出された宇野千代独自の誘惑の言説と看破したが、興味深いのは、宇野千代が四十二歳から六十七歳にかけて、つまりは最も長く結婚生活を営み、出版社の経営(破産と多額の借金返済を含む)や執筆活動の恊働者(きょうどうしゃ)であった北原武夫との日々を書き残そうとしたとき、そこに生み出されたのは、いまだ傷を抱えながらもそれを「書く」ことで形象化しようと試みる、静謐(せいひつ)な女の語り手による『刺す』(一九六六、新潮社)だったことである。『刺す』を読めば、語る/聴くことがこの作家にとって誘惑や挑発であった季節は終り、生きて在ることの証しそのものとなったことがわかる。
こうした分岐点を経て、八十六歳を迎えた宇野千代は回想録『生きて行く私』(一九八三、毎日新聞社)を刊行し、ベストセラーになる。瀬戸内寂聴の『わたしの宇野千代』(一九九六、中央公論社)によれば、宇野千代自身は新聞連載中から大きな反響があったこの作品を、読者にサービスしすぎたきらいがあると捉えてもいたようであるが、「花咲婆さんになりたい」に集約されるように、「自分がそんなに明るい気持ちで、自分の気持ちをしゃべれたことが、やはり幸福であった」という境地に到達して行く。宇野千代が愛した男たちのすべて、彼女を鍛え、支えた昭和文壇の仲間たちのほとんどが冥界に旅立った後、自身を語ることは彼等と生きた時代を語り継ぐことに他ならなかったし、八十代半ばに語り直される「宇野千代」は懺悔する主体ではなく、いかなるときも眼を見開き、その歩みを止めなかった希代の狂言回しとして、文学の枠を超えた読者を魅了したのである。
宇野千代を支えた人々は、数え上げればきりがないほど豊かであるが、ここでは宮田文子に焦点を当ててみる。
「男性と女性」の中で「私も宮田女史も、自分で自分のしていることが、なぜそうしているのか、と言うことが分らない」と称されているが、女優を経て、潜入ルポを探訪記事にまとめる新聞記者、武林無想庵の二度目の妻、ヨーロッパと日本とを股にかけて芸術活動・実業と多彩な才能を発揮した人物で、その破天荒な生涯は『わたしの白書 幸福な妖婦の告白』(一九六六、講談社)に詳しい。宇野千代は宮田に死化粧を施すほどの親友であったが、一九五一年に二人で二ヶ月にわたって欧州漫遊の旅をしている。敗戦から六年目、日本の女性作家としては初である。この年は林芙美子と宮本百合子という、昭和文学を牽引(けんいん)して来たといっても過言ではない女性作家二人が亡くなった年である。持病をおしておびただしい数の連載を抱え、講演をこなし、生き急ぐかのように逝った二人に比べ、宮田文子というコスモポリタンを水先案内人にして欧州を満喫し、長年憧れていた思想家・アランとの邂逅(かいこう)を果たした宇野千代は、五十四歳であった。宮田文子という友を得なければこの旅自体があり得たかどうかわからないし、また宇野千代が十二分に充電を果たし、翌年から始まる会社の破綻や借金地獄に堪えることができたかどうか。
宮田文子をはじめ、青山二郎、中村天風ら、宇野千代が圧倒的に傾倒をした人々は、「その道一筋」というタイプではなく、誰にもカテゴライズされない異能の持ち主であり、戦前・戦後を通して既存の美しさや正しさ、豊かさを根底から問い直して来た求道者たちであった。文芸の王道を行く谷崎潤一郎や川端康成を崇敬しつつも、「書く」以前に「生きる」ことを愉しむ宇野千代にとって、常住、異能者たちから試されることは欠くべからざることであったろう。
「宇野千代」を読む喜びは、彼女が引き寄せた人々が彼女を再生させる奇跡に立ち会うことであり、ことばでそこに創られた時空間を快い緊張感をもって追体験することでもある。
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