- 2024.02.15
- 読書オンライン
まさかでバズった「単なる読書感想投稿」、改めて本気でレビューします……本物のエンターテインメントには本物の魂が宿る!
高野 秀行
高野秀行が『化学の授業をはじめます。』を読む
1月某日、ノンフィクション作家・高野秀行さんのひとつのSNS投稿が読書好き界隈に渦を巻き起こした。「すごい小説を読んでしまった」――。純粋な読書感想投稿が45万インプレッションに達した、その本こそ『化学の授業をはじめます。』(ボニー・ガルマス著、鈴木美朋訳、文藝春秋)。この小説のなにがそれほどすごいのか。高野さんに改めてその魅力を記してもらった。
すでに2024年ベスト本有力候補!
すごい小説を読んでしまった。ボニー・ガルマス著『化学の授業をはじめます。』(鈴木美朋訳、文藝春秋)。かぎりなく悲痛でありながら、かぎりなく愉快&痛快。「本物のエンターテインメントには本物の魂が宿る」という真理を再認識した。 pic.twitter.com/K7CPcXN6tz
— 高野秀行 (@daruma1021) January 21, 2024
すごい本を読んでしまった。2024年が始まってまだ1ヵ月ほどなのに今年のベスト本有力候補だ。私は常々「本物のエンターテインメントには本物の魂が宿る」と思っているが、それを久しぶりに実感させられた。
この作品を一言で説明するのは難しい。かぎりなく悲痛でありながら、かぎりなく愉快・痛快なのだ。ジェンダー、恋愛、親子関係、教育、料理、スポーツ、マスメディア、動物(犬)、信仰……といったありとあらゆる要素が盛り込まれたスーパー総合小説でもある。設定はこんな感じだ。
舞台は1960年代初め、まだ女性差別の激しかったアメリカ。主人公のエリザベスは類い稀な才能と意志をあわせもつ化学者だが、博士課程の指導教官から深刻な性被害を受けて博士号を断念。「助手」として勤めることになった海辺のとある研究所で、初めて自分を対等の人間として接してくれる同じ化学研究者と結ばれたのも束の間、そのパートナーが事故死してしまう。結婚制度を信じない彼女は籍を入れていなかった一方で彼の子供を身ごもっていた。当時、「私生児」を生むことは「反道徳」とされていたゆえに、彼女は出産にともなって研究所を解雇。幼子を抱えてにっちもさっちもいかなくなっていたとき、偶然出会ったTVプロデューサーに抜擢されて『午後六時に夕食を』という料理番組のMCを務めることになる。「料理は化学です」と言って始めた番組は周囲の予想を裏切り、大人気番組になるが──。
全世界600万部に達した、3つの普遍的魅力とは
日本人にとって馴染みのない60年前の外国が舞台でそんなに盛り上がれるのか? と思うかもしれないが、全世界で600万部の大ベストセラーとなり、Apple TV+で(『レッスン in ケミストリー』として)ドラマ化されているのは伊達ではない。文化背景や個人の好みを超えた、普遍的な面白さがあるのだ。
なぜこの本がそこまで読者を引きつけるのか。これまたあまりにも多くの要素があるのだが、あえて3つに絞ろう。
まずはウィットに富んだユーモア。実は私は本屋でたまたまこの本を見つけて冒頭部分を読んだのだが、最初の4行目で噴き出してしまい、「立ち読みして笑ったら『負け』と認めてその本を買う」というマイルールに従い、購入したのだ。読了してみれば、その4行目のユーモアは作品全体の特質をあらわしていた。このユーモアがあるために悲惨な場面も無理なく読める。言い換えれば、ユーモアが織り交ぜられているからこそ、リアリティをもったきつい主人公の苦難を同時に体験することが可能となる。
次にキャラクター。決して空気を読むことなく自分が正しいと思ったことを実行し、絶対にぶれない主人公エリザベスがとにかく格好いい。娘のマッドは母親の賢さと忖度のなさを受け継ぎ、大人をドギマギさせる。周囲の女性たちもこの親子に感化され、どんどん変化していく。
このようなフェミニズムやシスターフッドの色彩が濃い小説は、男性の私には読むのがきついことが少なくない。責められている気分になっていたたまれなくなるからだ。でも本書では救命ボート的なキャラがちゃんと用意されている。家父長制の権化のような上司の言いなりになりつつも、決してエリザベスに強気に出られないどころか彼女に圧倒されてばかりいる、シングルファーザーのTVプロデューサーとか、今一つ神を信じられなくて自分の職業にも疑いを持っている牧師とか。男性読者はこれら「役立たずでやさしいダメ男」たちに感情移入して安らぐことができる。
最後にミステリ要素。私はR. D. ウィングフィールドのフロスト警部シリーズの大ファンである。いくつもの事件が錯綜しながら進んでいく「モジュラー型」と言われるミステリ様式にあらがえない魅力を感じている。とはいえ、著者が亡くなった今、もはや新作は望めず、かといってその穴を埋める作品にも出会っていない。そんな私にとって本書は思いがけない福音だった。ミステリ小説ではないにもかかわらず、あちこちにちりばめられた伏線が片っ端から回収され、全然つながりがなさそうなキャラクターやエピソードの意外すぎる連鎖が最後の大きな謎の解明に収斂していくという構造がフロスト警部シリーズ並みの興奮と満足感を呼び起こすのだ。
主人公エリザベスを超える(?)実在のスーパー女性科学者
本書の魅力を3つ紹介すると言ったが、番外でもう1つ。エリザベスが「料理を化学的に説明し、それが全米の女性から圧倒的な人気を得る」とか、エリザベスの本当の研究テーマは「生命起源論」だとか、あまりにファンタジックと思われるかも知れない。もちろん小説的にはすごく面白いから多少荒唐無稽でも読んでいていっこうにさしつかえない。
でも私はそこにも興奮したのだ。なぜならそれは決してフィクションではないから。たまたまだが、昨年の秋、湯澤規子著『焼き芋とドーナツ 日米シスターフッド交流秘史』(KADOKAWA)という本を読んだ。日本とアメリカの女性労働者の連帯と闘いを「日常茶飯事(日常の食事やおやつ)」という視点から読み解くこの本もめちゃくちゃ面白いのだが、日米の女性をつないだキーパーソンとしてエレン・スワロウ・リチャーズ(1842-1911)なる女性化学者が登場する(以下は『焼き芋とドーナツ』をもとにマサチューセッツ工科大学やウッズホール海洋生物学研究所のホームページも参照している)。
エレンはマサチューセッツ工科大学で初めて学位(学士)を取得した女性とされている。女性だという理由で博士号をとることができなかったものの、鉱山学者で彼女を同等のパートナーとして認めてくれる夫と結婚、家庭を化学(科学)研究の対象にすえて、ありとあらゆる活動を行った。子供や女性、労働者といった社会的弱者が栄養豊かな食事をとることができるように、科学の見地から料理を実演解説するという手法を考案したり、『アメリカン・キッチン・マガジン』という科学料理雑誌を創刊したりして大人気を得た。
現代の私たちが当たり前に使っている「タンパク質」「炭水化物」「カロリー」といった概念を(どうやら世界で)初めて大衆に教えたのも彼女である。エレンは学校給食、家庭科、家政学、公衆衛生学の始祖とされているという。
さらに彼女はアメリカの女性教育協会を説得して海辺(小説のようにカリフォルニアではなく東海岸だが)に女性も受け入れられる生物学研究所を開設。その研究所はのちにウッズホール海洋生物学研究所となり、単一の研究所としては世界最多の60名ものノーベル賞受賞者を輩出することになる。それにはDNAの二重らせんを発見したジェームズ・ワトソンや発達生物学への研究に大きく寄与した下村脩や本庶佑も含まれる。「生命起源論」の一大拠点になったのだ。ちなみに、津田塾大学を創設した津田梅子も1891年にこの研究所で学んでいるという。彼女もまた生物学者になりたくてもなれず、後進の女性の教育に人生を捧げた人だった。
ほら、エレンはエリザベスそっくりではないか。そんなスーパー女性化学者がもっと昔に実在したのだ。女性だからという理由で不当に評価が低いが(日本ではほぼ無名である)、その業績は質量ともにまさにレオナルド・ダ・ビンチ級。
真に驚くべきは、エレンが「家庭、自然界、そして人間の健康はすべて相互につながっており、科学は学際的であるべきだ」と考え、1892年、「エコロジー」(生態学)という新しい分野を提案する講演を行ったという事実だ。ただし、博士号ももたない女性の言うことだけにこの斬新すぎる提案が受け入れられることはなく、環境問題やエコロジーの概念が広まるのはそれから数十年後に現れる別の女性科学者レイチェル・カーソンを待たねばならなかった。それにしてもエコロジーがアウトドアではなく「インドア(主婦目線)」から始まったとは仰天ものである。
全読者が楽しめる、まさに「本物のエンターテインメント」
長くなってしまったが、『化学の授業をはじめます。』のエリザベスというキャラクターがエレン・スワロウ・リチャーズを大いに参考にして形成されたのは間違いないだろう。そしてエリザベスの言動や彼女の巻き起こしたセンセーションが一見、荒唐無稽と思われても、実在のエレンのそれに比べればこれでまだまだ控えめなのである。
この作品は著者にとってデビュー作だという。しかしとてもそうとは思えないほどこの小説の造りはしっかりしている。すごく複雑に入り組んでいるのに、主人公にも各エピソードにも変な揺らぎや「とってつけた感」がなく、著者の自信と確信が全編にみなぎっている。それはなぜかといえば、もちろん第一には著者の作家としての才能に帰するはずだが、もう一つは歴史的事実に大きく支えられているからではないか。エレンを筆頭とする女性科学者たちの苦闘と輝きがエリザベスに反映されている。そうとしか思えない──。
とは言うものの、読者のみなさん、ご安心を。以上のような知識はこの小説を読むには全く必要ない。何も考えずにページを開いていただいてかまわない。なぜなら本書は本物のエンターテインメントであり、本物のエンターテインメントはどんな人がどんなふうに読んでも面白いものだからだ。
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