「生命科学の最前線を知る絶好の書」――大隅良典(ノーベル賞生物学者)推薦。

「未だ知らざる多くのことを、私は本書から学んだ」――ビル・ゲイツ絶賛。

世界的ベストセラー『スティーブ・ジョブズ』評伝作家の最新作。


『コード・ブレーカー 生命科学革命と人類の未来 上』(ウォルター・アイザックソン)
『コード・ブレーカー 生命科学革命と人類の未来 下』(ウォルター・アイザックソン)

「完璧な作家」「完璧な題材」「完璧なタイミング」が一致して誕生した、最も重要な作品

 本書は当代随一のノンフィクション作家、ウォルター・アイザックソンの最新作だ。アイザックソンは世界的ベストセラーになった『スティーブ・ジョブズ』の他、アインシュタインやレオナルド・ダ・ヴィンチといった各時代を代表する革新的なイノベーターの評伝を書いてきた。今回の主役は、DNAを書き換える技術を開発し、二〇二〇年にノーベル化学賞を受賞した女性科学者ジェニファー・ダウドナである。原書は刊行直後からベストセラーになり、タイム誌、ワシントン・ポスト紙、スミソニアン誌、サイエンスニュース誌などで年間ベストブックに選ばれた。現在、米国アマゾンのレビューは一万を超え、星4.5と高評価を得ている。「『コード・ブレーカー』は、完璧な作家、完璧な題材、完璧なタイミングが一つになり、今年最も重要な本になった」とスター・トリビューン紙は絶賛する。

 本書が大いに注目を集めた理由の一つは、メインテーマ「クリスパー」の革新性にある。元来、クリスパー・システムは細菌がウイルスと戦うために進化させた免疫システムだ。細菌は自らのDNAに、クリスパーと呼ばれる反復配列領域を作る。その領域は、侵入してきたウイルスのDNAを記憶し破壊する。アイザックソンは「逮捕者の顔写真(マグショット)を壁に貼りつけるようなものだ」と言う。細菌という原始的な生物が、巧妙な免疫システムを進化させたことには驚かされる。しかし、真の驚きは、クリスパー・システムが簡便で精度の高いゲノム編集ツールになることだ。編集されたゲノムは将来の子孫の全細胞に継承され、やがては人類という種を変える可能性さえある。この可能性ゆえに、クリスパー・ゲノム編集ツール(クリスパー・キャス9)の発明をめぐって、ダウドナとライバルの間で激しい特許争いが展開された。現在、クリスパー・キャス9を利用したさまざまな治療・検出ツールが開発されつつある。鎌状赤血球貧血症、先天性の失明、遺伝性血管性浮腫、急性骨髄性白血病、家族性高コレステロール血症、男性型脱毛症など、対象となる疾患のリストは増える一方だ。

 クリスパーの発見にはダウドナの他にもさまざまな背景の科学者たちが関わっており、著者は彼らにもスポットライトをあて、貢献を讃える。人と人の化学反応が起きてクリスパー研究が全体として前進していくさまは、映画のようにドラマティックだ。そしてドラマをいっそう盛り上げるのがライバルの存在である。科学者には清廉潔白(せいれんけっぱく)というイメージがあるが、とんでもない。弟子が指導教官を欺いたり、論文査読や特許の審査を早めるために裏技を使ったり、自分の陣営の若手をフォローするために敵陣営を手ひどく非難する小論を書いたり、なんでもありだ。ダウドナも泣き寝入りはせず、健全な競争心でもって対抗する。


 紆余曲折を経て、大発見を成し遂げた女性科学者への祝福


 クリスパーの発見と特許をめぐる論争では、専門的な単語が出てくるので、クリスパー・システムのカギになる三要素について、ごく簡略な説明をしておきたい。

 ――クリスパー・キャス9システムは、キャス9(酵素)、crRNA(クリスパーRNA)、tracrRNA(トレイサーRNA)、という三要素からなる。crRNAは、過去に攻撃してきたウイルスのDNAを含む短いRNA断片だ。そのウイルスが再び侵入しようとすると、crRNAはガイドになり、ハサミとして働くキャス9を切断すべき場所へ誘導する。tracrRNAには二つの重要な役割がある。一つは、crRNAの生成を促進すること。もう一つは、侵入中のウイルスをつかむハンドルになり、crRNAが切断すべき場所へキャス9を導くのを助けることだ。互いが論文発表の段階でtracrRNAの役割をどこまで知っていたかをめぐって、各陣営は争うことになる。


 本題に戻ると、本書のもう一つのテーマはもちろんダウドナの人生である。「人がやらないことをやる」を信条とする彼女は、科学者たちがヒトゲノム(DNA)解読に熱中していた時代にRNAを研究テーマに選び、紆余曲折(うよきょくせつ)を経てクリスパー・システムの発見にいたる。著者はジェームズ・ワトソンの著書『二重らせん』でライバルとして描かれたロザリンド・フランクリンの姿をダウドナに重ね、時代が女性科学者を後押しするようになったことを祝福する。科学界に限らず社会でがんばっている女性たちは、ダウドナの勇気と果敢さに大いに励まされるだろう。

 ダウドナは『二重らせん』を読んで感銘を受け、科学者の道に進みたいと思うようになるが、ワトソンはユニークな形で何度も登場する。もはや歴史上の人物のように思える彼の、思いがけない老後の姿を本書は明かす。統合失調症の息子をもつワトソンにとって子供の遺伝子を書き換えることは切実な問題であり、彼が繰り返した問題発言は「ヒトゲノムを操ることは許されるのか」という本書が提示する疑問に対する彼の答えになっている。アイザックソンはそんなワトソンにも暖かな目を向ける。

 しかし、アイザックソンが厳しい目を向ける人物がひとりいる。クリスパー・ベビーを誕生させたフー・ジェンクイだ。ジェンクイは出世欲にとりつかれた中国人科学者で、二〇一八年にクリスパー技術を使ってHIV耐性をもつ赤ん坊を誕生させた。ダウドナはこの件とも関わりがある。クリスパーベビーの誕生が明らかになったのは、二〇一八年一一月に香港で開催されたヒトゲノム編集国際サミットの直前のことで、ダウドナはそのサミットの主催者の一人だった。サミットの舞台にジェンクイを立たせ、追求する場面は、実にスリリングだ。結局、ジェンクイは二〇一九年に有罪判決を言い渡される。

 研究室での発見、法廷での論争、会議での丁々発止(ちょうちょうはっし)のやりとりなど、すべての場面をアイザックソンはそこにいたかのようにリアルに再現する。その取材力と筆力には圧倒される。また、ブロード研究所の所長エリック・ランダーやフェン・チャンといったダウドナのライバルの懐(ふところ)にも飛び込み、本音を引き出す。アイザックソンの誠実で暖かな人柄に触れると、誰でもあっさり鎧(よろい)を脱いでしまうらしい。激しい戦いを描きながらも本書の読後感が爽やかなのは、彼のそうした人柄によるのだろう。


 新型コロナとの戦い、RNAワクチン開発、産学提携による一大産業の創出

 本書の重要なメッセージの一つは「自然に対する純粋な好奇心が科学の原動力になる」である。アイザックソン自身、好奇心のかたまりで、クリスパーによるゲノム編集に挑戦し、その作業がいかに簡単かを実証する。また、いち早く新型コロナのRNAワクチンの臨床試験にも参加する。

 そう、本書のもう一つのテーマは新型コロナとの戦いだ。アイザックソンが本書の前半を書き終えた二〇一九年一二月、新型コロナ感染症発生のニュースが飛び込んできた。この展開は彼もまったく予想していなかったが、新型コロナはRNAウイルスであり、RNAを専門とするダウドナは当然のごとくコロナとの戦いの先頭に立つ。彼女の弟子たちは必要な物資を他の研究室から調達・奪取し、大学の会議室を数日でウイルス検査ラボに変えていく。世界が新たな感染症に怯え、硬直している間に、若い科学者たちが超人的なスピードで戦いの布陣を敷いたことは、なんとも頼もしく思える。コロナとの戦いでは、それまで熾烈(しれつ)な競争を繰り広げてきたクリスパーの研究者たちが、研究の成果を積極的に共有するようになった。その結果、クリスパーはコロナ検査法とワクチンの開発につながった。アイザックソンは「パンデミックに見舞われた二〇二〇年は、伝統的なワクチンが遺伝子ワクチンに取って代わられた年として記憶されるだろう」と言う。

 モデルナがワクチン開発で一歩先んじた経緯も刺激的だ。同社は二〇二〇年一月に新型コロナウイルスのワクチンを作るプロジェクトを立ち上げ、およそ一か月後には国立衛生研究所に最初の試料(バイアル)を送った。二〇二〇年一月当時、モデルナは二〇種の薬品を開発中だったが、いずれも治験の最終段階に達していなかったという。それが今では世界有数の製薬企業だ。バイオビジネスの可能性の大きさが察せられるエピソードだ。

 ダウドナをはじめ、本書に登場する科学者たちは学術研究の枠を超えて、積極的にビジネスを展開する。「デジタル分野での学術研究とビジネスとの融合はスタンフォード大学の周辺で始まったが、現在、バイオテクノロジー分野でその融合が進んでいる。大学の研究者は、発見を特許化し、ベンチャーキャピタリストと組んでビジネスを立ち上げることを奨励されるようになった」と著者。このアプローチがもたらしたダウドナたちの成功を目の当たりにして、日本ではどうなのかと興味がそそられた。


 プーチンの予言、倫理問題、コロナが加速した生命科学革命

 やがて、話題の中心はヒトゲノム編集の倫理面に移る。ウクライナ侵攻を予言するかのような二〇一七年のプーチン大統領の言葉が紹介されている。「遺伝暗号に足を踏み入れる機会を人間は得た。望ましい特性を備えた人間を科学者が作ることを想像する人もいるだろう。そうして生まれるのは、数学の天才や優れた音楽家かもしれないが、恐れや思いやり、慈悲や痛みを感じることなく戦うことのできる兵士かもしれない」。ゲノム編集された人間を作ることの「利益」と「危険性」について語ったとされるが、今から振り返れば、そうした兵士の誕生をプーチンは「利益」とみなしていたのだろう。

 アイザックソンは問う。「今から数十年のうちに、ゲノム編集によって、生まれる子どものIQを高くしたり筋肉を強化したりできるようになったら、それを許可すべきだろうか? 目の色は? 肌の色は? 身長は? (中略)もし遺伝子のスーパーマーケットで売り出される製品が有料だとしたら、不平等は大いに増し、さらには人類に永久に刻み込まれるのではないだろうか」。この問いに、彼は安易に答えを出そうとはせず、読者が自分の問題として時間をかけて考えることを求める。

 二〇世紀に起きた原子力革命とデジタル革命につづいて、「現在、第三の、さらに重要な革命、すなわち生命科学革命の時代に突入した」「クリスパーの発明とコロナの流行は、この第三の大革命の進展を早めるだろう」とアイザックソンは言う。わたしたちは当事者としてそれを経験することになった。ニューヨーク・タイムズ紙の書評にある通り、『コード・ブレーカー』は、疫病の年となった二〇二〇年のわたしたちの日記でもある。

 二〇二二年一〇月

野中香方子