関西の、とある老人ホームの一室である。
「先生のご本の解説を書かせていただきます、荻野です」
老紳士は柔和な笑顔を崩さずに言った。
「汚くしていますが」
「いえいえ、いい感じです。殊に机の上。おもちゃ箱をひっくり返したようです」
「おもちゃ箱ってそれ誉めてませんよ」
「ああ、これがエッセイに出てくるペン立てですね」
二十本ほどの筆記用具が「ギチギチに」入っている。これに新たなボールペンを「無理やり押し込むと、一本だけ飛び出てしまう」。わが家もまさにそれで、一本だけ飛び出たペンが手に取りやすいので、他を差し置いてその一本ばかり使っている。ところが先生は「きれい好き」なので、ペンが一本飛び出た状態は「耐えられない」。新たなペンの置き場所を巡って懊悩する有り様が一篇になっている。
机周りにモノが氾濫している描写は見事である。私が殊に身につまされたのは、以下の箇所だ。
〈さらに、送られてきた年金や保険料の支払いなどの書類がある。何をどうすればいいのか理解できないまま、「時間が解決する。もしくはわたしまたは関係者の死が解決する」ことに望みを託して放置してある。〉(「ボールペン一本分のスペース」)
普通なら書類を放置、で済ませてしまうところだが、「時間が解決する。もしくはわたしまたは関係者の死が解決する」というツチヤ節が事態のもたらすリアルな気分を活写している。巧いだけの文章ならば真似すればよい。しかしツチヤ節は小説系の文体ではなく、背後に哲学があるから、他の人がやれば二番煎じになってしまう。
「わたしが哲学者だからと、買い被っているだけではありませんか」
「命題を解決するために関係者の死まで視野に入れて論じている。そういうフリをすることで、努力して自分で書類に記入する、あるいは人に聞く、という当たり前の解決策が読者に見えなくなります」
「詭弁だとおっしゃりたいわけですね」
「詭弁、上等。今の日本の文壇やジャーナリズムに一番不足しているのが、楽しい詭弁だと思うんです。こう見えてわたくし、弁論術は少々齧(かじ)っておりまして」
アリストテレスの『弁論術』は弁論を審議的なもの、法廷用のもの、演説的なものに分けている。審議的なものは政治弁論と置き換えてもいいかもしれない。中で一番文学に近いのは、演説的弁論となる。具体的には賞賛と非難を目的とする。まじめなものを誉める練習として、ヘンなものを誉める、という伝統も西欧にはあった。
「シュネシオスはハゲを誉めました。人間、若くて愚かな時は毛がフサフサで、歳をとって賢くなると毛がなくなる。ゆえにハゲは尊いのです。また、球体というのは完璧を表しています。宇宙における球体は恒星、地上における球体はハゲ。先生は見たところ完璧には程遠いようですね」
「それはハゲましてくれてるんですか」
「いいえ、誉めているんです」
「ヘンなもの誉め、ですか」
「こりゃ一本取られました」
「この本の中で、わたしはヘンなもの誉めてますかね」
「ヘンなもの誉めは、さっきのハゲを別にしても、普通嫌がられるものを扱います。病気、ハエ、暴君、痴愚、借金。平均寿命の延びた今日びでは老年も入るんじゃないでしょうか。失礼ですが先生ももうじき八十歳。老いることがひとつの大きなテーマと拝察します」
「強欲な老人」というエッセイでは、肉体の老化にひとつひとつ考察を加えていく。
〈聴力も衰えるが、妻が隣室で怒声を上げても聞こえないふりができるし、ロクでもないことば(ほとんどのことばは聞くに値しない)を聞かないですむから、このままでいい。〉
「これは老いの逆説的賛美ではないでしょうか。老いといえば、先生が若い人に心の中で啖呵を切る場面が大好きです」
〈歳を取ると何もできなくなると思ったら大間違いだ。たしかに夭折することはできないが、それがどうした。くやしかったらいますぐ老衰で死んでみろ。老人ホームに入居することさえできないではないか。〉(「『若いうちしかできないから』」)
「無茶苦茶な理屈で、思わず笑っちゃいますが、笑いの中で老衰や老人ホームがきらりと輝く一瞬があります。マイナスかけるマイナスがプラスに変じるように、現実が受け入れやすくなる一瞬が詭弁の中に宿ります。
アリストテレスに戻ります。賞賛のやり方なのですが、類語を使って誉める、というのが基本です。例えば『無謀な人は勇気のある人、浪費癖のある人は気前のよい人』。同じやり方で、先生は自分のことを『大胆不敵な勇者』だというのです。例を挙げておきます」
〈薬品や機器の説明書は文字が小さい。そのため、効能も用量もはっきりしないまま薬を飲み、半分推測で機器を使っているが、不安を覚えることはないから豪胆と言うしかない。〉(「豪胆な勇者かもしれない」)
「他に、薬を『用法用量もはっきりしないまま』飲んでいることを、『太っ腹』と称している箇所もあります。そんな自分のことを『とんでもない大馬鹿者かもしれない』とフォローするのがツチヤ節の味のあるところですね。小心で易きに流れるわたし、が根底にあるから、大胆な逆説を読者は受け入れられる。ところで、まだ出ないんですか?」
「出るって、お化けか何か?」
「ご冗談を。コーヒーですよ」
「こりゃ驚いた。自分から催促する人は初めてです」
「先生のエッセイにはしょっちゅうコーヒーが出てくるんで、飲みたくなっちゃうんですよ。豆にもこだわっていらっしゃるとか」
「たしかにこだわってはいます。ただ、わたしは苦いのが苦手なので、大量のクリームと砂糖を投入していました」
「わたしはブラックでいただきますが、先生の文章を読んでいると、自分が邪道のような気がしてきます。大量のクリームと砂糖の入ったコーヒーはおいしい。しかし、クリームと砂糖だけでは物足りない。コーヒーという『隠し味』が必要だからだ。この段階で哀れコーヒーは隠し味に降格されてしまいます。その次にカレーの比喩がきます」
〈しかしカレーに醤油を隠し味に入れるとおいしいからといって、醤油だけ飲んでも塩辛いだけだ。それと同様に、コーヒーだけを飲んでも苦いだけだ。〉(「ブラックで飲むコーヒー」)
「論理のすり替えなんですが、不思議な説得力があるので、半分納得しちゃうんです。少なくとも一回はクリームと砂糖を盛ってコーヒーを飲んでみようという気になります」
「今のうちにはクリームも砂糖もありませんよ。苦いのを我慢してブラックにしたら三キロ減りましたからね」
言いつつツチヤ先生はカップをわたしの前に置いた。テーブルには、ちょうどカップ二杯分のスペースが空いていた。
一口飲んだ先生は、顔をしかめて、傍らのスナック菓子の袋に手を伸ばした。わたしは自分のバッグから板チョコを取り出した。
「実はわたしも、コーヒーだけ、は苦手なんです。必ず甘いものを一緒にいただくんです。せっかくご馳走になったし、気を入れて先生を誉めることにします。先生の本は逆説だらけですが、ごく稀にシリアス・ツチヤが顔を覗かせることがあります。数十年というもの、学者として研究に一心不乱だった、というのは最初は眉唾かと思いました。しかし予想したどんでん返しはありませんでした。次の一文で、わたしは思わず姿勢を正しました」
〈わたしは人生を賭けて失敗してもかまわないと思っていたし、途中で一度、それまでの二十年間の研究が完全な無駄だったと気づいたが、後悔の念は微塵もなかった。〉(「一心不乱になるとき」)
「これ、かっこいいですよ。あれ? 先生?」
先生の姿は消えて、後に柔和な微笑みだけが残っていた。先生はチェシャ猫だったんだ。納得したところで目が覚めた。机に突っ伏して寝ていたと分かるまでに数秒かかった。目の前のパソコンの画面は白い。