- 2024.04.18
- 読書オンライン
非常の一時代の記録――コロナ、安倍元首相暗殺、戦争など、未来予想のつきづらい、絶句するような出来事が続いた5年間で映画監督が考えたこと
文藝出版局
『ハコウマに乗って』(西川 美和)
『ゆれる』『ディア・ドクター』『すばらしき世界』など、数々の話題作を手掛けてきた映画監督の西川美和さんは、『永い言い訳』などが直木賞候補に選ばれるなど文筆の世界でも名文家として知られています。そんな西川さんの最新エッセイ『ハコウマに乗って』が刊行されました。本書は2018年から23年までの5年間、スポーツや時事問題などを主なテーマに、第一線で活躍する映画監督の日常を時にユーモラスに、時に厳しい眼差しで綴った、これまでのエッセイ集とはひと味もふた味も違った一冊です。ここでは『ハコウマに乗って』より、「まえがき」を抜粋して紹介します。
本書は、「Sports Graphic Number」2018年12月6日号から2020年8月20日号までの連載「遠きにありて」と、「文藝春秋」2021年3月号から2023年12月号までの連載「ハコウマに乗って」とを併せて収録したものである。
「Number」も「文藝春秋」も、多くは時事的な話題が盛り込まれている雑誌なので、その片隅に載るエッセイとはいえ、私も無意識にその時々に社会で起きたことを取り上げがちだった。冒頭の一篇は2018年の終わりごろに書いたものだが、「スーパーボランティアの尾畠さん」の話題から始まっていて、読者の方も面食らうような時の隔たりを感じるのではないだろうか。その後、人類がほぼ経験したことのない大規模パンデミックが起こるだなんて、子供を救った尾畠さんのニュースをほのぼのと眺めていた頃はまるで予想もしなかった。
コロナ禍においても、月に1度、その都度の実感で書いていたので、状況に応じて緊張感や思いも少しずつ変わっていったようだ。ワクチンや特効薬もなく見通しの立たないころは、行動制限についても敏感になっていたり、もはや世界が回復を見ないかのような悲壮感も滲んでおり、今になってみれば自分でも少し奇異にも読めるが、それだけこの5年間というのは、誰にも未来予想のつきづらい、不可思議な流れの中にあったのだろうとも思う。
「Number」の連載は2015年から始まって、2018年11月までの3年分は以前すでに1度単行本にまとめてられていた(『遠きにありて』文藝春秋刊)。その後編集部と、2020年夏までは連載を続け、東京五輪について書いて区切りにする約束をしたはずだったのだが、全世界的な感染拡大によって大会が1年先に延期され、結局、実際に開催された2021年の無観客五輪について私は綴ることなく連載を離れた。もともと唯一の趣味がスポーツ観戦だということから誘ってもらった連載だったが、正直なところ、延期された東京五輪については文章を寄せる自信がなくなっていたのだ。「Number」を手に取るスポーツ愛好家たちにとっても、参加する競技者たちにとっても、読んで辛くなるような言葉を重ねてしまいかねない気がしていた。プレイヤーたちに罪はないが、用意されたフィールドが汚くぬかるみすぎているように思った。
私がスポーツを観るのは、自分の生きる世界からは遠く、何も考えなくていいからだった。しかし人間の能力や勝負勘、チームの結束や奇跡、そして限界や絶望を、嘘も筋書きもなく観ることのできるスポーツの神性が、それを取り巻くいろんな利権や判断ミスのせいですっかり侵されて、余計なことをいろいろ考えずにはいられないものになった。
プレーヤー、クリエーターに罪はないのか?
けれど、本当にプレイヤーに罪はないのだろうか? 才能や技能だけの、無力な人々なのだろうか。そんなことを映画界にある自分たちに置き換えて考えたのがその後の三年間になった。人が寄り集まることが御法度になって、映画の撮影が中止になったり、世界中の映画館が封鎖になったりということがまさか起こるとは想像もしなかったが、当たり前に流れていた空気がぴたりと止まった時、映画監督という立場で無心に走り続けることで、聞こえないようにしていた言葉や考えないようにしてきた環境のことが気になり始めた。作り手は面白い映画を作ることだけに専心していられるのがベストだが、フィールドがぬかるんでいるのでは、仲間も後輩もその上を歩けない。自分にはフィールドのぬかるみにまで責任は持てないと思い込んでいたけれども、「ぬかるんでて嫌だ」「こんな足場でいいプレーなんかできない」と言葉にするのは、そこに自ら立っているプレイヤー自身の役割ではないかと思うようにもなった。
感染症との長い戦いや、元首相の暗殺、新たな戦争や虐殺、ジャニーズ事務所の解体など、絶句するような出来事が折り重なる中で、私が受け持っていたのは分厚い『文藝春秋』の末尾に近いわずか見開き2ページだった。深刻な話題よりも食後のデザート感覚の軽い内容を、と心がけたつもりだけれども、まとめて読んでみるとやはりそれなりの「ぬかるみ感」がある。こうした場を借りてキーボードを叩きながら、自分の中でまとまらずに折り重なっていたことを、整える時間にさせてもらっていたのかもしれない。読者の方の目には粘りつくようでしつこいかもしれないが、トンネルを抜けてはまたトンネルに入るようだったこの非常の一時代の記録として読んでいただければと思う。
西川美和(にしかわ・みわ)
映画監督。1974年広島県生まれ。早稲田大学第一文学部卒。在学中から映画製作の現場に入り、是枝裕和監督などの作品にスタッフとして参加。2003年公開の脚本・監督デビュー作『蛇イチゴ』で数々の賞を受賞し、06年『ゆれる』で毎日映画コンクール日本映画大賞など様々の国内映画賞を受賞。09年公開の長篇第3作『ディア・ドクター』が日本アカデミー賞最優秀脚本賞、芸術選奨新人賞に選ばれ、国内外で絶賛される。『夢売るふたり』(12年)、『永い言い訳』(16年)に続く、21年公開の『すばらしき世界』でも高い評価を得た。小説・エッセイの執筆も手がけ、『ゆれる』で三島由紀夫賞候補、『きのうの神さま』『永い言い訳』でも直木賞候補となるなど話題に。その他の小説に『その日東京駅五時二十五分発』、エッセイ集に『映画にまつわるxについて』『スクリーンが待っている』などがある。
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