第1話
商店街のスピーカーから流れてくる調子っぱずれなクリスマスソングにかぶせるように「焼き立てパンはいかがですか」という若い女の店員の甲高い声がひびきわたった。青果店の店主もパン屋に負けじと大声で「しいたけつめ放題だよ!」と客を呼びこむ。
あちらこちらにクリスマスツリーが乱立しており、アーケードの天井からは季節はずれの桜の造花がたれさがっている。色とりどりの看板やのぼり、壁にはポスター。かわいい女の子がにっこり微笑んでいるそのポスターには覚せい剤は絶対にダメである旨が書かれており、もちろんダメだ、ほんとうに許してはいけないよね、と同意しながら通り過ぎる。昭和の時代からそこにいる洋品店のマネキンは、毒々しい薔薇がプリントされたワンピースを着せられて、斜め上を見上げていた。
精肉店から漂うコロッケや焼き鳥の香り、喫茶ラプンツェルから流れ出るコーヒーの香り、あやしげな雑貨屋が醸し出すお香の香り。ここを歩くと、耳も目も鼻も忙しい。
商店街は駅からアルファベットのLのかたちにのびている。のびのびと書いた縦棒が駅前通りで、アーケードが横棒だ。駅前通りには銀行や学習塾、飲食店チェーンの店舗などが多く、このあたりとはすこし雰囲気が違う。
アーケードの半ばから左にそれた細い路地の途中に、テーラー城崎はある。路地には小ぢんまりとした商店などが並び、そのほとんどが一階が店舗で二階が住宅というつくりになっている。
テーラー城崎は両隣の似たような店舗兼住宅よりもわずかにひっこんだ位置に建っている。手前には大きな桜の木があって、たいていの人は奥にあるテーラー城崎に気づかずに通り過ぎてしまう。商売をやるには致命的に不利な立地だ。せめて目立つところに看板を出すなりなんなりすればよいものを「たどりつけない客は、この店に縁がないってことだ」と、これまでやってきた。
煉瓦造りの無骨な二階建て、一階には半畳ほどのショーウィンドウがあり、かつてはそこに背広が飾られていた。紺色のピンストライプの、いかにも重たげな生地で仕立てられた、そこはかとなく昭和の香り漂う一着だった。ショーウィンドウは今ではすっかりからっぽで、ロールカーテンがかかっている。ついでに言うと店の看板もとうの昔に下ろしてあり、かわりに入り口の扉に「リフォーム、裾上げ、承ります」という手書きのはり紙がしてあった。
真鍮のドアノブが冷たくて、触れた瞬間悲鳴をあげそうになった。手袋をしてくればよかったと思ったが、もう遅い。覚悟を決め、腹に力を入れ「うおお」と声を発しながらドアを開ける。蝶番がきしみ、耳障りな音を立てた。
最初に目に入ったのは、壁に立てかけられたコルクボードにはってある無数のメモだった。山本さん、月末マデ。槙野さん、裾上げ大至急。仕事の期限らしきことが加代子さんの特徴ある角ばった筆跡で書きつけられている。ミシンの脇には色とりどりの布地が積まれていた。ギンガムチェックにドット柄、アニメキャラクターや恐竜、車やユニコーンがプリントされたものもある。
壁には額装された写真がかかっている。わたしはコートを脱ぎながら、その写真を見るともなしに眺めた。桜の木の下で撮影された写真だ。テーラー城崎の初代と二代目、つまり加代子さんの義父と夫だった男はいかめしい微笑を口もとにたたえ、直立不動の体勢でカメラにおさまっている。撮影者は加代子さんだろう。写真隅の日付は四十年前のもので、現在ひとりは老人ホームに入っており、もうひとりは死んでいる。
ととと、と階段を駆け下りる足音が聞こえたと思ったら、加代子さんが姿をあらわした。数年ぶりに会ったが、ごく短くさっぱりと整えた髪も、黒いシャツに黒のパンツというスタイルも化粧っ気のなさも変わらない。シャツとパンツの素材はどちらも綿だ。昔から加代子さんは身体の線を拾わないシルエットの服を好む。
しいて言えばやや白髪が増えたような気はするけれども、ふしぎな若々しさは健在だった。本人に「若く見られたい」という意識が微塵もないから「ふしぎ」なのだ。
「来たなら来たって声かけてよ、リボンちゃん」
「リボンちゃん」なんぞというかわいらしいあだ名でわたしを呼ぶのは世界広しといえどもこの加代子さんだけだ。加代子さんはわたしの母の姉だ。母とはちょうど十歳違いと聞いているから、今年六十八歳になる。六十八歳、へえ。六十八歳なんだ、とあらためて驚く。高齢者じゃないか。
わたしは先月、三十三歳の誕生日を迎えたばかりだ。自分の年齢についてはべつに驚かない。そりゃそうでしょうねえ、三十三年生きたら三十三歳になるでしょうねえ、という思いがある。なのに、同じように時間を重ねている周囲の人間の年齢については、いちいち新鮮にびっくりする。友人の子どもが小学生になったと聞いて腰を抜かすほど驚き、伯母が高齢者になったと知ってはぎょっとする。母はもう永遠に年を取らないから、わたしをびっくりさせてくれない。
「今日のリボンもかわいいじゃない」
加代子さんはわたしの後頭部を見ているようだった。ハーフアップにした髪に、ローズピンクのリボンを結んできた。素材は天鵞絨、黒いレースの縁飾りまでついている。
「でかいでしょ、このリボン」
「うん、でかいね」
わたしのリボンは、しばしば人びとの嘲笑の種になる。つい先日も職場のバイトの男の子に「そういうの、今あんま流行ってないと思うんですけど」「何歳までその方向性で行くんですか」とニヤニヤしながら問われたばかりだ。流行っていようがいまいがわたしは頭にリボンをつけると決めているし、ババアになってもこれで行くつもりだよ、誰がなんと言おうとね、とおだやかに答えると黙った。翌日は手持ちのリボンの中でもっとも幅が広く、派手な色のものを髪に結んで出勤した。男の子はわたしと目を合わせてくれなくなった。
「似合ってるよ」
加代子さんは至極あっさりと言い、わたしに二階に上がるように促した。
二階の住居部分はあまり広くない。急な階段をのぼっていくと廊下があり、左手が居間、右手が加代子さんの寝室だった。廊下のつきあたりの部屋は初代夫婦の部屋だったが、現在は物置と化している。
居間のこたつには手編みのカバーがかかっていた。加代子さんが編んだの、と台所に向かって声をかける。
「いや、買ったのよフリーマーケットで」
「そうなんだ」
「この古臭さがなんか、いいでしょ」
「昭和っぽくていいよ」
加代子さんが盆に湯呑みをふたつのせて入ってきた。
「どうしてこたつに入らないの」
正座をしているわたしを見て驚いている。いちおうことわりをいれてから入ろうと思っただけだ。足をくずして、こたつ布団をめくる。冷えたつまさきがこたつの熱で、じんわりと痺れた。
加代子さんの淹れてくれるお茶は、いつも微妙に薄い。ちゃんと茶葉を量らないのだろうか。わりあい器用な人で、料理でもなんでも手早くうまくつくるのに、お茶の味だけがいつもいまいちだ。茶葉を倹約しているのかもしれないし、たんに薄いのが好き、という可能性もある。
母はわりあい不器用なほうだったけど、そのことを自覚しているせいかなんでもマニュアル通りにきっちりこなすため、失敗も少なかった。どちらがいいとか悪いとかいう話ではない。遺伝子の50%を共有していてもこうしたさまざまな違いを持つ「姉妹」というもののふしぎについて思いをはせるだけだ。
「そういえば三回忌、行けなくてごめんね」
けっこう前のことなのに、昨日のことみたいに言う。だいじょうぶだよ、とわたしは答える。
「行きたかったのよ、でも、忙しくてさ」
そんなにがんばって言い訳を重ねなくても、ほんとうにだいじょうぶなのに、と思う。わたしとしても加代子さんが欠席したほうが都合がよかった。加代子さんとわたしの父はあまり仲が良くない。といってもふたりともいい大人なので、つかみあいの喧嘩をしたり罵倒し合ったり、ということはさすがにない。ただ互いにうっすらとした嫌悪感を言葉の端々、視線、仕草などに滲ませて、わたしを居心地悪くさせるだけだ。
「べつにいいよ。三回忌なんて、お寺でお経あげてもらうだけだし」
まさかあの子があたしより先に死ぬなんてね、と加代子さんが呟き、わたしは聞こえなかったふりをした。母の死は、わたしにとって「引きずっている」と表現するほどの重さはないが、かといって思い出話で盛り上がれるほどには軽くないトピックだった。
「加代子さん、最近どう?」
軽くないので、ものすごく強引に話題を変えた。
「なんかやけにカラフルな布が一階に積んであったけど」
「ああ、あれね。体操服入れ」
近所の小学校に子どもを入学させる保護者から頼まれるという。なんでも体操服入れの形状から紐と持ち手の長さ、名札を縫いつける位置まで決まっているそうで、いかに世に既製品があふれていようと、その条件をクリアするものを見つけるのは至難の業だ。
「体操服入れなんてミシンがあればすぐできるけど、裁縫が苦手な人もいるからね。だから毎年、ここで注文をとるの。年々増えていくのよ。どうも口コミで広がってるらしくて」
「なるほどねえ」
加代子さんの夫が死んでから、テーラー城崎では紳士服をつくっていない。つくれなかったのだ。洋裁学校に通っていた加代子さんには技術も知識もあったが、作業場には入れてもらえなかった。仕立て屋っていうのは男の仕事だからと、にべもなくはねつけられ、かんたんな帳簿つけとか雑用とかだけをやっていた、と聞いている。
加代子さん本人は「いいのよ、べつに。どのみち、閉店するつもりだったんだから。スーツなんてさ、もう町の仕立て屋でつくるような時代じゃないんだから」と笑っている。今はちょっとした裾上げだとか体操服入れを縫うような依頼を引き受けつつ、週四日ほど近くのクリーニング店でパート勤めをしている。
「百花はどうなの? 仕事のほうは」
加代子さんはまじめな話をする時にはわたしを「リボンちゃん」ではなくちゃんと名前で呼ぶ。
「うーん。まあ、つつがなく、って感じ」
よくわかんない店に勤めている。人に職業を聞かれると、ついそう答えてしまう。「よくわかんない店ってなによ」と笑われるのだが、十年以上勤めていてもよくわからないのだからしかたがない。
倉庫を改装した店で、家具や洋服や雑貨を売っている。ほとんどは海外のユーズド品なのだが、社長の知り合いの作家がつくった椅子とか器とかいったものも並んでいる。最近、カフェコーナーができたと思ったら、二階ではカポエイラの教室がはじまった。方向性がよくわからないというか、すべてが社長の思いつきで決まる。一応正社員なのだが、正社員であるということが逆に恥ずかしいような職場だった。
加代子さんはカポエイラを知らないようで、「え、カポ……なに? それ、楽器かなにか?」と首を傾げている。
「ブラジルの伝統武術だよ。社長の知り合いにインストラクターやってる人がいてさ」
「武術! へえ!」
カポエイラは遠い昔、ブラジルに連れてこられた黒人奴隷が編み出したものだ、とインストラクターの若い男性が言っていた。奴隷たちは農園主の理不尽な暴力に対抗するべく武術の稽古に励んでいたが、農園主に禁止されてしまう。だから武術の稽古だとばれないように、楽器を演奏しながら踊っているように見せかけた。わたしは実際の練習風景を見たことがないが、社長は目を潤ませて「おれはあんなにも美しい武術をほかに知らない」と語っている。
「社長が『あ、そうだ!』って言うたび、こんどはなにをはじめる気だって、不安になるんだよね」
「あいかわらずおもしろいねえ、あんたのとこ」
ほかの親戚なら、仕事のほうは、という質問の後には、結婚のほうは、と続くところだろうが、なにせ相手は加代子さんなので、なにも訊かれない。
しばらくとりとめのない話をした。二杯目の薄いお茶を飲みながら、話があったのではなかったのか、と訝しむ。「ちょっと相談があるから来てほしい」という連絡を受けて、今日ここにやってきたのだ。わたしは「甘いみかんはおいしいけど甘いだけで酸味がまったくないみかんに当たると裏切られたような気分になる」という話をしている加代子さんの顔を盗み見る、はずだったのだが、盗み見ることに慣れていないために、真正面からじっと見つめてしまった。
「え、なに?」
加代子さんが怪訝な顔をする。
「じつはこのあと、ちょっと出勤しないといけなくなって」
噓ではない。ほんとうは休みだったのだが、バイトの女の子が急病で代わりに出なければならなくなったのだ。
「そうなの? カポエイラのほう?」
「ちがう。わたしはカポエイラの教室にはかかわってないから」
倉庫を改装した店に並ぶ商品の管理と事務所内での経理、というのがわたしのおもな仕事だった。学生時代にバイトしていた店に、なりゆきでそのまま就職した。思えばバイトをはじめた経緯も、椅子を買いに行った時にバイト募集のはり紙を見てなんとなく、という、いいかげんなものだった。
「加代子さん、電話で『相談がある』って言ってたでしょ。なんなのかなって思って」
さっさと本題に入ってくれ、と言わんばかりの失礼な態度だったのだが、加代子さんはべつだん気を悪くした様子もなく、「そうそう、そうなのよ!」と叫んで両手を音高く打ち鳴らした。
「これを見てよ」
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