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一穂ミチ・待望の新連載「アフター・ユー」

一穂ミチ・待望の新連載「アフター・ユー」

一穂 ミチ

一穂ミチ「アフター・ユー」#001

出典 : #WEB別冊文藝春秋
ジャンル : #小説


 せいが帰った時、家の中は真っ暗だった。あいつ、きょう遅番やったっけ。電気をつけ、冷蔵庫の扉に貼ってあるカレンダーでのシフトを確認すると『旅行』と書いてあった。そうだ、きのうの朝早くから一泊旅行に出掛けていたんだった。「お土産、楽しみにしてて」と言い残していたから、何か買ってきてくれるつもりはあるのだろう。めいやご当地グッズの類か、それとも晩めしになりそうな特産品か。とりあえず『遅くなりそう?』とLINEを送ってから風呂に入った。
 入浴後、ビール片手にスマホをチェックしたが既読はついていない。移動中かもしれない。すでに午後九時を回り、腹の虫は鳴きまくっている。仕方なく『先にめし食ってます』と断りを入れ、パックごはんと納豆、冷奴、冷蔵庫に鍋ごとしまわれていたみそ汁という大豆まみれの夕飯を食べた。それから漫然とテレビを見たり動画を見たりしていると十一時を過ぎ、眠たくなってきた。多実はまだ帰らず、メッセージも読まれない。電話をかけてみたが、『電波の届かないところにあるか……』というアナウンスが流れるばかりだった。すこし不安になる。交通機関の遅延に巻き込まれた? ひょっとしてもっと深刻な事故や事件……胸のざわつきをなだめるため「いや」と小さく声に出した。多実は普段からスマホに無頓着で、バッテリーが切れたまま気づかず放置しているのもざらだったし、テンションが上がると時間を忘れる性格でもあった。あれやこれやと気をむのは早計だろう。そう自分に言い聞かせ、『先に寝るけど、これ見たら電話して』と送信し、床に就いた。
 心配で寝つけないということも、夜中に目が覚めるということもなくスマホのアラームに起こされるまで熟睡し、自分の薄情さを少々後ろめたく思いながらLINEのトーク画面を開いた時点では楽観と期待が大半だった。電話はなかったけれど、大方深夜でちゅうちょしただけだ、きっと返信がきている、と。
 しかし、青吾が送ったフキダシには既読すらつかないままだった。電話をかけても昨夜と同じ音声に応答され、さすがに焦る。しかし、仕事に行かなくてはならない。納豆と生卵をかけたレンチンごはんをかっこみ、空っぽの家に施錠した。いたばしの営業所に着くと、ルーティンのアルコール検査や車両とカーナビのチェックを経て出庫する。
 やま通りを走っているとすぐにアプリ配車の要請が入り、「OK」をタップする。この頃はアプリと流しの比率が六対四くらいで、アプリの客が多い。無駄な走行をせずに済んでありがたい反面、誰の手も上がらず、道路を漫然と流す時間が青吾は嫌いじゃなかった。「空車」のサインをともしたままあっちの通り、こっちの街、と地図を塗りつぶすように走行している時、自分が透明になったような気がしてほっとする。
 その日最初の客は、きたいけぶくろからサンシャイン60というオーダーだった。迎車料金含めて千五百円程度、幸先としてはよくも悪くもない。ただそれはあくまで運賃だけの話で、指定のマンション前に到着すると間もなく出てきた若い男はデニムのポケットに両手を突っ込んで立ったまま後部座席に乗り込もうとせず、「どうかされましたか」と声をかけると「おめーが開けろよ」と、すでに開いているドアを顎でしゃくった。朝イチからめんどくさいの引いてもたな、そんなぼやきはもちろん腹の底に押し込めて「失礼いたしました」と一旦ドアを閉め、車を降りて後部に回り込んでからお辞儀とともに手で再びドアを開ける。男はシートの上で扇のように大股を広げ、「あちーから早く閉めて」とまた顎を突き出す。癖らしい。ドアの開閉くらい大した手間でもないからしてやるが、それでプライドなりメンなりが保たれた、守られたと満足するものだろうか。腹は立たず、ただふしぎだった。
「ご指定のルートなどはございますか」
「早くて安いのに決まってんだろ」
「かしこまりました、それではナビの指示通りに走行いたします」
 後部座席のシートベルト着用をお願いしなければならないのだが、面倒を避けるために黙っていた。男はすぐにスマホを取り出して急用とも思えない通話を始めたので、着くまでおしゃべりしていてくれと願いつつ注意深くハンドルを握った。
「……そう、でさあ、トんじゃったの、そいつが」
 狭いセダンの車内に、男の笑い声が響き渡る。
「まじよ。あそこでばっくれる? っていう……逆に男らしくね?」
 トぶ、ばっくれる、という言葉だけ、いやにエッジが立って聞こえるのは、多実の不在が引っかかっているせいだろう。仕事モードに切り替えたつもりでも、懸念が消えない。こんなふうに、客のちょっとした会話や挙動を意識してはっとすることがたまにある。多実も、同じだと言っていた。
 ——お客さんがちょっと小銭探して手間取ってたりしたら、普段は何とも思わないのに、やけにいらいらする日があって、そういう時は、自分のメンタルが落ちてるんだなって自覚するし、逆に、ちょっとした「ありがとう」ですごくやる気が出る日は、あ、ごきげんじゃん、って思う。快不快とか体調って、案外自分ではわかってなかったりするのかもね。
 ——うん。
 ——「自分」を決めるのって、自分じゃないんだなって思わない? 誰かと接した瞬間の境界線がそのまま輪郭になるんだと思う。他人がいないと、水みたいに、質量はあってもかたちがなくなっちゃいそう。
 多実は、時々そんな小難しい話をした。青吾があいまいに頷くと、お見通しみたいに笑って「今度、占いに行こうよ」と誘った。
 ——トルココーヒー占いっていうの、テレビで見たんだ。
 ——うさんくさいな、どんなん?
 ——コーヒーを普通に飲んで、飲み終わったらカップをひっくり返してソーサーに伏せるの。それで、カップの底とソーサーについたコーヒーのしみを見て占ってもらうんだって。小鳥に見えたらいいことがある、とか。
 適当やな、と青吾は呆れた。まだ占星術なんかのほうが信憑性がありそうに思える。
 ——こう見えるからこうです、って、占うやつの感覚で決まってまうやん。
 ——そう、だからそれも誰かが引いた自分の輪郭線。
 その怪しい占いに多実が行きたいのなら別に構わなかったが、結局具体的な計画は出なかった。あれは確か、春だったか、もっと前だったか。トルココーヒー占いとやらは、どこで受けられるんだろう。

 運転中も、コーンマヨネーズパンと缶コーヒーの昼食をコンビニ前で慌ただしく流し込んでいる間も、青吾のスマホは沈黙していた。勤務を終えて「お疲れさまです」と営業所を出ようとすると上司に呼び止められた。
かわ西にしさん、前も軽く言ったけど、シフトの件で」
「はい」
「ずっと昼日勤で働いてもらってるけど、夜日勤か隔日勤務、どうかなって。ほら、いま人手足りないでしょう。特に深夜帯が厳しくて。どうかな」
 すいません、と青吾は頭を下げた。「タクシー強盗に遭ったことがあるんで、夜は怖くて。面接の時にも言うたと思いますけど」
「まあ、それは、ねえ」
 じゆうめんをつくる上司の心中は容易に察せられる。一度の強盗くらいでがたがたぬかすな、身軽な子なし独身なんだから夜でも働けるだろう——それでも青吾は「すいません」と繰り返した。強盗に遭ったのは五年以上前で、釣り銭トレイの上部に空いたアクリル板の隙間からナイフを突きつけられ、売上二万円少々を奪われただけだった。警察の鑑識作業で粉まみれになった車は廃車を余儀なくされたが、諸々の処理は会社の仕事なので特に面倒はなかった。被害も少額だった割に容疑者はすぐ捕まり、警察署で顔写真を見せられた。自分とそう変わらない歳だろう男の写真を見ても怒りや恐怖といったものは湧いてこず、ただ、あれっぽっちの金であほやな、と思った。たかだか二万円で人生終わらせてどないすんねん。服役して刑期を勤め上げて出所したところで、社会的には致命傷を負ったも同然だ。償ったからといって過去が真っ白に戻るわけじゃない。
 青吾の心に残ったのは哀れみまじりの軽蔑だけで、トラウマになったということもなかったのだが、多実はひどくうろたえ、「もう夜は走らないで」と泣きながら訴えてきたので驚いた。ベランダからスズメバチが入り込んできた時も、びびるだけの青吾をよそにすばやく照明を消し、「こうしとけば明るい方に飛んでいくから」と冷静に対処していた多実だから、「災難だねえ」と笑って済ませてくれるに違いないと軽く考えていたのに。
 ——あほな犯人や、二万円ぽっちやで、割に合わんやろ。
 多実の真剣さを疎ましく感じた。自分なんかのために、泣いたり心を痛めたりしてほしくなかった。すこしでもその場の空気を和ませたくて、指を二本立てておどけた口調で言うと、多実は赤い目でじっと青吾を見た。
 ——そうだよ。その二万円ぽっちで殺されちゃうことだってあるんだよ。
 泣き声のスイッチを一瞬でオフにしたような平坦な口調に、「せやな」と返すのが精いっぱいだった。
 ——逆にさ、青さんはいくらだったら納得できる?
 ——え?
 ——お金、いくら持ってたら、ああ強盗してもしょうがない、襲われてもしょうがない、って思えるの?
 つめたい刃物の、切っ先ではなく腹を首すじにぴたっと押し当てるような問いだった。何と答えたか、覚えていない。それとも「ああ、うん」と煮えきらないあいづちで流してしまったのか。多実の懇願に押し切られて、業界ではマイナーな昼日勤のシフトを採用している今の会社に移った。給料は下がったが、以前より風邪を引かなくなり、酔っ払いに絡まれる確率も激減し、夜明け前に勤務が終わってから始発まで営業所で時間をつぶすということもなくなった(マイカー通勤の同僚に送ってもらう者もいるが、青吾にはそんな気安い相手がいなかった)。何より多実と生活時間を合わせられるようになったので、結果オーライだった。
 でも、もし多実がずっと帰ってこなければ、昼日勤にこだわる理由もなくなる。
 そんな考えがふっと頭をかすめ、片隅に引っかかったまま離れなくなった。一方で、一日帰りが遅れたくらいで何を、とのんきに構えようと必死な自分もいる。
「まあ、今は労基もうるさいし、いやっていう人にシフトの強要はできないけど、こっちも困ってるんで、考えといてください。じゃあ」
「はい——あ、すいません」
 脈なしだと踏んだのだろう、さっさと背中を向けた上司は、青吾が呼び止めると露骨に面倒くさそうに振り向いた。
「何ですか?」
「乗務員の名前と顔写真、車内に掲示せんでもええようになったんですよね。あれっていつからですか」
「ああ、今は移行期間ってことで、会社からは特に日程来てないけど……何かありました? しつこいクレーマーに遭遇したとか、SNSに写真さらされたとか」
「いえ、別に」
「揉めてたら言ってくださいね。炎上とかすぐ報告上げて対処するようにって上からも言われてるんで」
「はい」
 青吾はまっすぐ家に帰らず新宿まで出ると、百貨店の地下にある和菓子屋に向かった。夕方で混み合っていて、なかなか客が途切れない。ショーケースの中のあんみつ缶は、ついこの前、多実と一緒に食べた。お中元コーナーに見本として陳列していた詰め合わせを、シーズンが終われば店員で山分けしていい習わしになっている。多実があんみつや葛切りをどっさり持ち帰ってくると、ああ今年もそんな季節か、と思う。お歳暮のシーズンにはまんじゅうやおかき。いつから、多実の土産で季節を感じるようになったのだろう。
 ふたりいる女性店員がようやく両方フリーになったタイミングを見計らい、青吾は足早に近づいて「すみません」と声をかけた。

 

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