- 2024.05.03
- 読書オンライン
「ナイター中継を最後まで流すこと」主演の沢田研二が『太陽を盗んだ男』で突きつけた政府への要求に思い出す、テレビのスポーツ中継でしか観られないものとは?
西川 美和
『ハコウマに乗って』収録「テレビよ継(つなが)れ!」より #1
スポーツ中継の見方が多様化して久しい。BS、CS、配信と選択肢は広がっており、かつて独擅場だった地上波テレビは往時の勢いを失い、さらには伝え手としての使命感も失ってしまっているのかもしれない……。2019年の世界陸上で日本の男子4×100mチームが予選失格となったのをテレビで見た西川美和氏が抱いた感慨とは?
ここでは、『ゆれる』『ディア・ドクター』『すばらしき世界』など、数々の話題作を手掛け、またエッセイ・小説の名手としても知られる映画監督の西川美和の最新エッセイ『ハコウマに乗って』(文藝春秋)の一部を公開中。テレビ中継とスポーツの関係性についての鋭い考察を紹介する(全3回の1回目 初出:2019/6/13)。
『太陽を盗んだ男』という映画がある。日本のアクション娯楽作の概念を一変させた一九七九年の作品だ。何しろ内容は中学の理科教師が東海村の原発からプルトニウムを盗んで原爆を自作し、政府を脅迫する、という今なら右も左も映画会社も泡を噴いて倒れそうな話である。主演は絶頂期の沢田研二。皇居前広場に特攻隊の格好のバスジャック犯を無許可で突っ込ませたり、都心のビルの屋上から万札をばらまいたりの無茶苦茶な撮影を敢行して逮捕者も出したと聞く。当時の映画の現場は体制への反逆者、社会不適合者の溜まり場であり、法律、警察、なんぼのもんじゃい、という気概で作られていたのだろう。善悪の彼岸から催涙弾を投げ込まれるような異様な人間観が、教師や世論が諭すのとは別の世界に人を連れて行って魅了した。
その主人公が政府に突きつけた最初の要求が、「ナイター中継を試合終了まで流すこと」だったのをふと思い出した。先日『世界リレー』の地上波テレビ中継が、これから走る選手紹介の途中でぶつりと終了した時のことである。走者たちはレーンに立ち、十数秒もすれば号砲が鳴るというタイミングであっさりCMに突入したのだ。おい、こりゃー!……と映画の中でジュリーも怒ったかどうかは忘れたが、映画の公開当時は毎晩全国で巨人戦の中継が流れ、そして二十一時前にはきっちり放送終了するのが常だった。「どんなに乱暴な編成だろうと、視聴者は巨人戦からは離れない」と確信したような放送局側の作為に屈するほかなかった当時の人々には、ジュリーの要求は胸のすくようだったかもしれない。
久米宏さんが見せた、テレビマンとしての気骨とショーマンシップに震えた
時間制限のない競技の生中継は編成上厄介なのだろう。好きなドラマやバラエティが中継の延長で押したり飛んだりすれば怒る人がいるのもわかる。けれど「いつまでやるの」「どうなっちゃうの」という不確実性こそがスポーツの醍醐味であり、それを映して伝えるのはかつてテレビの独擅場だった。だからこそ、一九八八年のパ・リーグ最終戦、俗に「10・19」と呼ばれる十月十九日近鉄対ロッテのダブルヘッダーが急遽『ニュースステーション』に引き継がれた時のことが忘れられない。伝えなきゃならないニュースがたくさんあるんですけどね、と笑いながら中継を続行させた久米宏さんに、テレビマンとしての気骨とショーマンシップを感じて体が震えた。試合の行方もさることながら、歴史的なことが起きている、という事件性が加味されたのだ。映像には、後から観ても良いものと、その時観なければ意味のないものがある。勝たない限り近鉄の逆転優勝はない川崎球場での第二試合は四時間を超え、同点のまま最後の守備についた近鉄野手に日本中が見入ったそれが、結果的には昭和最後のペナント争いとなった。
時代は移ろい、スポーツを観るにもBS、CS、配信と選択肢は広がり、観たい人が観たいものを観たい方法で見るようになった。地上波テレビには、もうかつてほど伝え手としての使命感はなくなったのかもしれないが、同時に「どうせなら確実性のあるものを伝えなければ」という切迫感が高まっているようにも思う。五輪でメダルの実績も積んできた日本の男子4×100mチームがまさかのバトンミスをして予選失格となった後に、はい、見所は終わりました、と言わんばかりにその他のレースが放送から切り捨てられたように見えてしまった。しかし実は私もその敗退の瞬間、「ちぇーっ!」と叫んで一度はテレビを消したのだ。結局3分後にはまたスイッチを入れていたものの、一体いつから自分はこんな風に勝てる見込みのあるものしか見たがらなくなってしまったのだろう。
従来陸上競技は日本選手が上位に食い込みづらく、そのぶん世界中の選手の活躍を比較的冷静に眺めてきたはずだ。カール・ルイス、セルゲイ・ブブカ、ケネニサ・ベケレ、エレーナ・イシンバエワ、ウサイン・ボルト。国によらず、スーパースターをみんなたくさん知っている。世界中の速さを、跳躍を、パワーを、「勝て勝て勝て!」ではなく「すげーえ」という驚きとともに讃えてきたのだ。負けっぱなしの時は、案外物事に対して寛容で、自分と関わりのないものも広く緩やかに受け入れられるのに、ちょっと勝てると思った瞬間、変に欲が出て、おらが村の子だけを可愛がるような視野狭窄に陥るのだからふしぎだ。
苦い敗北の道程こそ、テレビのスポーツ中継でしか見られないものかもしれない
負けてゆくものを観るのは辛い。惨めで痛ましくて、自分までやりこめられた気持ちになる。けれど本当に記憶に濃く刻まれるものは、勝利の喜びよりも、なぜか苦い敗北の道程だ。本当はそれこそがテレビのスポーツ中継でしか観られないものなのかもしれない。隣り合って慰める仲間もおらず、カメラが捉えた敗者の顔と自分との一対一になる。八八年のペナントを制した西武よりも、近鉄の最終戦を語る人は多い。すでに優勝は夢と消えたあの十回裏、ベンチから選手をじっと見つめる仰木彬監督の表情を目撃したことを、悔いた人はいないだろう。
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